[No.248] 容疑者Xの献身 <89点>

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キャッチコピー:『その謎を、愛そう。』

 その容疑者は、全てをかけた。
 この“アイ”をかけても、あの人と同じ平面には立てないから。

三文あらすじ:自分たちに付きまとう元夫・富樫慎二(長塚圭二)を口論の末殺害してしまったシングルマザーの花岡靖子(松雪泰子)は、隣家の異変に気付いた高校数学教師・石神哲哉(堤真一)から殺人を隠蔽するための指示を与えられる。数日後、河原で富樫の死体が発見されるも、有力容疑者である靖子のアリバイを崩せず捜査に行き詰まった貝塚北署の刑事・内海薫(柴咲コウ)は、帝都大学理工学部物理学科第十三研究室所属の准教授にして“変人ガリレオ”と呼ばれる天才物理学者・湯川学(福山雅治)に捜査協力を依頼する。大学時代の同期であり、自身が唯一“天才”と認める数学者の石神が容疑者の隣人であると聞き石神宅を訪ねた湯川は、彼の関与を確信し、独自に事件の謎に挑んでいく・・・

※以下、ネタバレ有り。

~*~*~*~

 
<電視台る(ふりかえる)>
 1997年の『踊る大捜査線』、2001年の『HERO』と過去数々の“ヒーロードラマ”を輩出してきたフジテレビが、2007年に放送した大人気ドラマシリーズ『ガリレオ』。『踊る~』を魂のバイブルと位置づけ、『HERO』を観て一時検察官を志したこともある筆者は、当然この『ガリレオ』もファーストシーズンから楽しく観ていたクチである。

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 本ドラマシリーズの魅力は、やはり一も二もなく“天才物理学者・湯川学”というキャラクター部分にあると言っていいだろう。エルキュール・ポアロの灰色の脳細胞を思わせる天才的頭脳、シャーロック・ホームズを彷彿とさせる変人ぶり。推理小説、あるいは、探偵小説のこれまでの歴史からほどよくいいとこ取りしたそのキャラクター造形は、“物理学者”という肩書きによって見事に現代とマッチしている。

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 その一方で、本ドラマシリーズの見所、あるいは、ジャンルといったものは、よくよく考えてみるとあやふやだ。一見すると、推理ものであったり探偵もの。より詳しく言うなら、犯人が誰かは冒頭で既に判明しており、視聴者は犯人が使ったトリックを考えながら鑑賞するという、『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』のようないわゆる“倒叙もの”に属する作品であろう。

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 ところが、である。本シリーズの主役は“物理学者”であり、必然、作中で用いられるトリックも極めて科学的・専門的なものである(それが“エセ科学”だということは当然織り込み済みで。)。なんたら加速器だったり、なんたら理論だったり、要は、物語の軸であるトリックを観客が解いていく、という楽しみ方が基本的には出来ない作り。

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 つまり、推理ものであり探偵ものという形式をとっていながら、その実、厳密に言えば本作はそのようなジャンルのシリーズではないということだ。正確に言えば、本作は、歴とした“ヒューマン・ドラマ”である。家族を守るため自殺を他殺に見せかけた夫のトリックを涙ながらに完遂せしめた妻のドラマ、テレビ出演のために幼い息子に嘘をつかせた父のドラマ。本シリーズの真の見所は、そういった非常にエモーショナルな部分にこそあると個人的には思う。

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<活動写真る(かたる)>
 本作においても最大の見所は、やはりこの“ヒューマン・ドラマ部分”である。

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 あくまでも石神という“容疑者”のドラマに焦点を絞った本作は、まず、そのタイトルにおいて『ガリレオ』という看板を掲げなかった。また、福山雅治自身が作曲した本シリーズの印象的でキャッチーなテーマソング『vs.~知覚と快楽の螺旋~』も本編中では流れない。エンドロールの後半でやっと聞くことが出来るに留まる。さらに、ドラマシリーズにおいて湯川先生のキャラクターをヒロイックなものにしていた大きな要素、すなわち、あの“計算式を書き殴るシーン”が、本作では一度も登場しない。これらのことからして、本作は、ドラマ『ガリレオ』が持っていた“ヒーローもの”としての性質を極限までそぎ落としたのだと考えられる。

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 では、もう一つ、ドラマ部分の他に魅力的だった要素、“トリック”についてはどうか。もちろん『本格ミステリ ベスト10』や『このミステリーがすごい!』等の賞を総なめした原作だけあって、本作のトリックは、実におもしろい。アリバイトリックと見せかけて、実は死体のすり替え、というトリックは、ドラマシリーズのような科学的・専門的な知識を必要としない非常に“親しみ”のあるものなので、我々は、石神が一体どんな仕掛けで警察を手玉に取っているのか、という点を楽しみに推理しながら鑑賞することが出来る。

 しかし、圧巻なのは、トリック自体の論理的な完成度だけではない。真に素晴らしいのは、ドラマ部分と完璧に連携されたトリックの意味にある。

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 石神は孤独な男である。天才的な頭脳を持ちながら、いや、そうであるからこそ、凡人とは上手く付き合えない孤独。数学にのみ没頭するその姿は、湯川先生の比ではないくらいの“変人”ぶりである。そんな彼は、ある日、“愛する人”と出会う。それが花岡靖子だ。ここでの“愛”は、惚れた腫れたの“恋愛”とは若干であるが異なっている。人生に絶望し、自殺を実行しようとしたその寸前、引っ越しの挨拶に訪れた花岡親子。もちろん、彼女の美しさに目を奪われ、いわゆる一目惚れの感覚を持ったことは事実であろう。しかし、石神にとっての靖子は、必然的に肉体的関係への願望を内包する“恋愛対象”ではなく、自身を絶望から救い、生きる希望と目的を与えてくれた、そんなもっと大きな存在であり、かつ、自分の全てを賭けることも厭わない対象である。

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 そんな彼が仕組んだトリック。それは、自責の念に耐え続けることなど出来ない善良な花岡親子が警察の追及を凌ぎ得るように、もう一つの死体を富樫であるかのように偽装することで、死亡推定時刻自体をズラしてしまうというものだった。そんなユーザーフレンドリーな仕掛けに加え、彼は、靖子へのストーカー行為をも自らねつ造し、自分が逮捕されることで花岡親子を守るための完璧な多重ロックを張り巡らしている。つまり、石神は、愛する者を守るため、そのためだけに自らも殺人を犯す、という常人には考えも及ばない大胆かつ繊細なトリックを実行したのである。

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 そして、ここには、本作のテーマを表象する素晴らしい独自性が隠れている。靖子に対する石神の気持ちとこのトリックを結びつけるキーワードは“四色問題”だ。端的に言えば“どんな平面又は球体表面も隣接する領域が異なる色になるように塗るには4色あれば十分である”という定理を証明するのがこの問題。1852年、フランシス・ガスリーという法科学生が数学を専攻する弟のフレデリックに質問したことを発端にして定式化されたと言われるこの問題は、それから実に120年余りもの後、ケネス・アッペルとウォルフガング・ハーケンの2人の手によって、コンピューターを用いた演算の末に証明された。学部生時代の石神が彼らの証明を“美しくない”と言っていたのは、アッペル、ハーケン両人の証明が、コンピューターを使ってしらみ潰しに調べていく、というものだったからだろう。

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 そんな“四色問題”が本作のテーマと関わりを持つのは、本問題が有する“隣同士が同じ色になってはならない”という性質のためである。同じアパートの隣同士の部屋に暮らす石神と靖子。己が愛する相手に近づきたい、すなわち、相手と“同じ色に染まりたい”あるいは、相手を自分と“同じ色に染めたい”と願うのは、人が皆持っている普遍的感情であろう。だから石神は、もう一つの殺人を犯す。この罪によって、石神は、愛する靖子と同じ犯罪者になり、靖子と“同じ色”に染まった。もちろん、靖子に近づきたいから石神が罪を犯した訳ではない。彼はそんなに愚かで稚拙なキャラクターではない。そうではなくて、本作を一つの“作品”として結果を神の目で見るなら、石神が靖子と同じく殺人者なる展開に意味を見いだすことが出来る、という話である。

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 しかし、隣同士の2人が“同じ色”のままでは花岡親子は救われない。そして、それは石神の本意ではなく、彼が望んだ結果ではない。だから、彼は、自ら出頭し、現実的・社会的・法的に“石神だけが殺人者である”という状況を作出した。靖子は人を殺さぬ善良な市民、石神はストーカーの末殺人を犯した罪人。“隣同士が同じ色になってはならない”のである。独房の夜、石神は、この言葉を印象的に呟く。誰よりも強く想いながら、決して“同じ色”になることがなかった靖子と一時“同じ色”になり、しかし、結果“同じ色にはならない”ということで彼女を完璧に守りきった。そんなことを噛み締めながら、彼は、頭の中で独房の天井を四色に塗り分けていったのかもしれない。紆余曲折の果てに、石神は、真に美しい四色問題の証明を見いだしたのだろう。

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 しかし、彼の立証は、天才物理学者ガリレオの手によって失敗に終わる。湯川が石神に全てのカラクリを確認した後、石神の計画が脆くも崩れ去る瞬間が極めて素晴らしい。このシーンは、決して小説では表現できない、まさに“映画化の有意義性”を感じさせてくれる最高のシーンだ。

 このシーンで特筆すべきは、何と言っても石神を演じた堤真一の名演技であろう。筆者は、本作を鑑賞する前に原作を小説で読んだ。そして、小説における石神は、実に“ブサイクな男”である。たしか太ってすらいたのではなかったか。だからこそ、映画化が発表されたとき、石神役が堤真一である、ということを知った筆者は、深く落胆した。色々とトリッキーな役を演じ分けられる名優とはいえ、原作が持つ類い希なき切なさや哀愁、そして、目を見張る"美しさ"は、ビジュアル的に醜悪な石神であって初めて表現できるものなのに、と。これだから筆者はバカなのである。そもそも、普段凛々しい役を演じている俳優だから作品の味を表現出来ない、というのは、全く論理的ではない。

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 事実、本作のラストシーンで見せた堤真一の演技は、本当に本当に素晴らしいものだった。湯川から全てを知らされ、移送される石神の前に現れた靖子。ほぼ自白と言っていい発言をし謝罪する靖子を前に、天才数学者は全てを理解する。完璧に塗り分けた隣同士は、再び同じ色に染まってしまった。彼の立証は、失敗したのである。靖子は、花岡親子は、もう救われない。そして、あの咆吼である。

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 絶望の涙を流し膝を折るとき、人はよく“泣き崩れる”と言うが、このシーンの堤真一の演技こそが“崩れる”と言うに相応しい。体全体に留まらず、顔面や空気感、彼の身体を取り巻くあらゆる要素が絶望し、ガラガラと音を立てて崩れていく様が克明に表現されている。このシーンを見て、筆者の鑑賞前の浅はかな予想は、これまた脆くも崩れ去ってしまったのであった。

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 また、もう一つ、映画オリジナルの良かったところは、冒頭での実験シークエンスだ。一切の痕跡を残さず洋上の船舶を爆破したカラクリを湯川が検証するくだり。“ガウス加速器”なるよく分からないデバイスが登場するが、そんな“エセ科学の格好良さ”は、ドラマシリーズの魅力の一つだった。

 このシークエンスが本作のテーマと直接的にリンクしているのは、実験後の湯川と内海の会話。すなわち、“愛”についての会話である。湯川先生は“愛”が分かっていない、と非難する内海に対し、ガリレオは呆れ顔で返答する。「ax^2+bx+c=愛などという2次方程式があったらどうだ?三角形の面積が底辺×高さ×愛だったら?円の面積が半径×半径×愛だったらどうだ?」と。「誰も答えられません。」と意気消沈する内海に、勝ち誇ったガリレオが言い放つ。「だから"愛"などという非論理的なものを考察する必要はない。」

 このオープニングシークエンスは、まさに本作の構造の象徴である。天才数学者石神は、靖子を守るために完璧な方程式を組み上げた。しかし、その方程式には石神の“愛”もが組み込まれていたのである。したがって、彼の計画は破綻した。どんな天才的頭脳を以てしても“愛”の謎は永遠に解けないからだ。

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 またあるいは、“愛”を“I”に置き換えてみてもいいかもしれない。“I”とは“自分自身”、つまり、この場合は真の主人公たる石神のことを指す。彼の計画の出発点は、“花岡親子にウソをつかせない”というところだった。そして、これはなぜかと言うと、“花岡親子は自責の念に耐え切れない”から、警察の執拗な取り調べに対してウソをつき通せないとの予測があったためである。この石神の予想は、全く以て正確だった。事実、彼の計画が崩れ去った上記シーンで、靖子は「私たちだけ幸せになるなんてできない!」と絶叫する。これは、紛れもなく彼女が“自責の念に耐え切れなかった”ことの表れである。

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 では、警察の取り調べに対する靖子らの胸中を適確に予測できた石神は、なぜ靖子の自首を予測できなかったのか。それは、もちろん、“自分自身”を計画に組み込めなかったからである。つまり、己を過小評価していたわけである。花岡親子のような素晴らしい人たちが、自分みたいなくだらない人間を気に掛けるはずがない。この確固たる前提を疑わなかったため、石神は、湯川から「花岡靖子に全てを伝えた」と聞いたときも自身の計画成功を確信したままだった。しかし、実際はそうではなかった。石神は誰にも必要とされない無価値な人間などではない。自分自身を代替可能な変数Xだと過小評価していた一人の容疑者の証明は、この点を見誤ったために失敗してしまったのである。まぁ、この解釈は若干筆者のこじつけっぽい部分もあるが、いずれにせよ、実におもしろい。

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 一方で、映画化ならではのダメなところが露呈したのが、石神と湯川の“登山シークエンス”であろう。ここは『サトラレ』における第一号のシークエンス同様、その必要性が議論されるべき、原作には無いシークエンスである。

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 個人的には、やはり不要なくだりだったと思う。映画的には、アクションシーンの無い作品である以上、街中を離れた大自然に舞台を移し、さらに、そこで湯川が殺害されてしまうかも、というハラハラの要素を加味するためのシークエンスだったのであろうが、雪山シーン自体がダラダラと間延びしていることと、今更石神がガリレオを殺すような直感的で愚にも付かない手を打つはずがない、ということが観客には分かりきっているので、正直蛇足感しか感じない(まぁ、石神が己を過小評価せず、真に完璧な計画を組み立てられていたなら、このシークエンスで湯川先生の息の根を止めていただろうが。)。

 以上より、個人的な本作の感想を全体としてまとめるなら、概ねよろしい、が、君は一つだけ間違えた、ということになるのである。

点数:89/100点
 鑑賞後、石神を取り巻くドラマに想いを馳せ、タイトルが持つ“献身”の意味に深く心を打たれる素晴らしいストーリー。もっとも、この“献身”の意味については、作中で明言されているし、おそらくは方々で語り尽くされてきただろう事柄だから、ここでは、主に“四色問題”に表象される本作のテーマについて若干詳述した。次回、探偵ガリレオは、美しい港町で封印された禁断の謎に迫る。現在絶賛上映中作品『真夏の方程式』で、またお会いしましょう。Q.E.D.

(鑑賞日:2013.6.28)

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