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26
2014

[No.314] ジンクシー・ジェンキンス、ラッキー・ルー(Jinxy Jenkins, Lucky Lou) <90点>

jl1.jpg

キャッチコピー:unknown

 不幸と幸運と雨傘を持てあます全ての人たちへ。

三文あらすじ:世界一“不幸”な男の子ジェンキンス(Ed Skudder)と世界一“幸運”な女の子ルー(Lynn Wang)。2人は、ある日、道ばたで運命的に出会う。それは、とてもステキな冒険の始まりだった・・・

<本編(3分52秒)>



~*~*~*~


 “不幸”“幸運”の違いはなんだろう。“勝者”と“敗者”の違いは?ある者は富を得て、ある者は今日のパンにも事欠く。試験に受かる者がいる一方でいつまでも受からない者がいたり、楽しく仕事する者の影でうんざりと働く者がいる。日はまた昇り、そして、沈む。人生は、ケ・セラ・セラだ。

 本作のタイトルを直訳するなら『不幸なジェンキンスと幸運なルー』となるだろう。何かの賞をとった比較的有名なショート・フィルムらしく、多くのブログで紹介されている。そして、そのほとんどが、本作の2人を“不幸”“幸運”という相反する概念で以て表現している。しかしながら、あまのじゃくな、もとい、屁理屈言いの、もとい、賢明な鑑賞者のみなさんは、既にお気づきのことだろう。本作で世にもステキな大冒険を繰り広げるジェンキンスとルーであるが、彼らの有する“能力”は、“不幸”や“幸運”といったものではない。

 “不幸”も“幸運”も、ともに極めて主観的な概念だ。人間は弱いから、一応世間一般の“不幸”あるいは“幸運”の「基準」なんてものが存在はする。何度も試験に落ち続ける者は“不幸”だ、有名な企業に就職できたから“幸運”に違いない。ちゃんちゃらおかしな言い分である。世の中には、確かに“不幸”も“幸運”も存在する。しかし、それは、各人にとって唯一無二の、言い換えれば千差万別の概念である。“恋愛”にルールが無いのと同様、世間の常識にまで昇華可能な“不幸”や“幸運”など、この世に在りはしない。

 本作の2人を見てみよう。

 ジェンキンスに関しては、確かに“不幸”と表現することも可能なのかもしれない。家を出るやいなや雨に打たれ、傘を持ち出した刹那雲が切れる。そうかと思えば強風が吹き出し、今や何の意味も持たない傘は、無意味を通り越してやっかいの種になる。彼が歩くところ、花はことごとく萎れ、鏡はすべからく割れる。なんという“不幸”な人生か、と客観的な評価を試みてしまうのも無理からぬところである。何より、当のジェンキンス本人が、自らの周囲で起こる出来事に逐一うんざりしているのだから、彼の主観に対する表現としての“不幸”は、概ね的を射た評価と言い得る。

 一方、ルーの周囲で発生する事象は、ジェンキンスとは正反対である。家を出たとたん雨がやみ、足を踏み入れそうになった水たまりにはすかさず蓋がされる。彼女の行く手を祝福する満開の花々や鳥たち。なんという“幸運”な人生か。しかして、この評価は、全くの的外れである。

 ルーは、自身の周囲で起こる“幸運”な出来事の数々を好ましく思っているわけではない。水たまりを見つけたときの彼女の晴れやかな顔、そして、勇んで飛び込んだにも関わらず何故か飛んできた新聞のようなものによって入水が不発に終わったときの悲しげな顔を見れば、一目瞭然である。彼女の人生は、彼女にとって果たして“幸運”なそれか。答えは、当然ノーだ。彼女の人生は“退屈”そのもの。つまり、ルーが有する能力とは、実は“幸運”ではなくて、“平穏”なのである。そして、生まれ落ちてから一切の困難無く“平穏”に過ごし続けてきたルーが自身の人生に望んでいるもの、それは、紛れもなく“退屈からの脱却”、すなわち、“トラブル”である。

 では、ここで今一度、不幸なジェンキンスに思いを巡らしてみる。彼が持って生まれた天性の能力は、一体何だったか。彼自身のうんざりした気持ちの描写として、そしてまた、周囲の人間からの無責任な哀れみの表現として可及的に近似した概念を探すなら“不幸”。しかし、限りなく客観的に、彼の周囲で発生する事象から紐解けば、どうだろう。出かけようとすれば雨に阻まれる、雨をしのごうとすれば無用の傘に患わされる。彼が引き寄せる事象を客観的に評価するなら、すべからく“困難”である。つまり、ジェンキンスの持つ能力とは、そう、“トラブル”に他ならない。

 そんな2人が、ある日偶然に出会う。これを“運命”と呼べないのなら、世界はそれこそ不幸の塊だ。

 2人の出会いから先は、世にもステキな大冒険の幕開けである。突き抜ける青空の下、駆け抜ける疾走感が最高な傑作シークエンス。特に注目なのは、語り口の論理性である。言い換えるなら、2人が有する能力の性質を忠実に守った展開運びだ。

 直滑降にて高速で坂を下るカートは、交通量の多い通りに差し掛かる。そのまま行けばまず間違いなく2人は車に轢かれ、絶命するだろう。“死”は、人間にとって最大の“トラブル”。つまり、この事態は、紛れもなくジェンキンスの能力によって引き起こされている。とはいえ、通りを行き交う無数の車の間を奇跡的にカートが通り抜け、2人が助かるという可能性も全くのゼロではない。天文学的に薄い希望だとしても、2人にはまだ“トラブル”を回避する術が残っている。そこで、ジェンキンスの能力がもう一度発動する。呪うべき彼の力は、道行く車に玉突き事故を起こさせ、彼らの行く手に回避不可能な壁を築いた。これではもう、彼らのカートが衝突を避ける可能性は、完全にゼロだ。ここで、“平穏”の能力を持ったルーがカート前方に移動する。発動した彼女の力は、“偶然にも”ジャンプ台を出現させ、2人を乗せたカートは天高く飛翔、不可能だと思われた衝突回避を成し遂げる…。スマートで論理的な展開だ。2人の能力というルールに従い、かつ、エンターテイメント性を損なうことなく、極めて心地よいアクションシーンが紡がれていく。

 また、当該シークエンスラストにおいて、崖から落下する2人が九死に一生を得る場面も見事の一言。勢いそのまま、切り立った崖から飛び出し、遙か眼前の海原目がけて落下していくジェンキンスとルー。今度ばかりは、ハラハラしながらもどこか楽しげに消化してきた今までの道中のようにはいかない。重力以外に主を持たぬ中空では、もはや彼らに打つ手なし。“トラブル”ばかりでつまらない人生だったな、ずっと“退屈”でつまらない人生だったわ。各々がそう回想しながら、彼らは死の瞬間を待つ。

 ここで動くのは、ジェンキンスだ。最後の悪あがき、彼は、出がけに持ち出したあの“無意味な”傘を手にする。壊れた傘が偶然にも機能し、そして、偶然にも風を掴んでくれれば、2人は助かるかもしれない。アニメ世界の規律を前提とするのなら、ジェンキンスの発想は、決して非論理的ではない。

 しかし、彼は、気付く。そんなのは不可能だ、と。彼が引き寄せる得るのは“トラブル”である。そもそも、今手にしている傘も、晴天時の“トラブル”としてここにある。彼はうなだれる。俺にはできない。俺なんかじゃ、無理だ。俺だけじゃ、無理だ。

 ジェンキンスは手を伸ばす。その手は、目の前で死の絶望を目の当たりにしている最愛の女の子との初邂逅時、伸ばし返せなかった手。ルーはその手を取る。それは、長い長い退屈の人生の中で、ひとときとはいえ唯一“幸運”を感じさせてくれた、とても大切な人の手。

 論理とは、ある意味で無慈悲なものである。どんな幸せな場面でも、どんな不幸せなシーンでも、決して揺るぐことなく機能する。死を前にして発動したルーの能力は、手を繋ぐジェンキンスを媒介として彼の傘を展開させた。ジェンキンスの熱い想いが最愛のルーのために奇跡を起こしたわけではない。大切なジェンキンスを守るためにルーが神変を得たわけでもない。ただ、2人が当たり前に有するそれぞれの能力によって、当然の救済が帰結されただけだ。しかし、いや、だからこそ、筆者はこの物語の展開運びに痛く感じ入り、大いに胸を熱くして涙した。一分の隙もない論理性に裏打ちされた、2人の最高に熱い大団円。これこそが、我がブログにおける作品評価時のモットーにして信条、“熱いハートとクールな頭脳”に他ならない。

 そんなステキな大冒険を経て、2人は“恋”に落ちる。上記2人の“能力”の本質をきちんと理解すれば、これは全くの必然である。あらゆる少年漫画が示すように、男性にとって最大の“トラブル”とは、路上で偶然出会い一目惚れしてしまった女の子への“恋”なのだし、全ての少女漫画が物語るように、女性にとって最愛の男性との“恋”は、人生に“平穏”をもたらす最良のギミックなのだから。

 この結末が示すテーマにおいても、本作は秀でている。すなわち、2人の能力の性質に反することなく、それでいて2人の幸せな結末を描くことによって、本作は、人は無理に変わらなくてもやっていける、という極めて素晴らしい命題を提示しているように思えるからだ。

 筆者は、このような考え方がとても好きだ。世の中には、自分の頭で考えず、世間で言うところの“不幸”や“幸運”をただ引き合いに出して、こうあるべきだ、とか、こうあってはならない、と宣う輩で溢れている。自分自身の確固たる意見でないにも関わらず、他人に対してその価値観を押しつける、というところが、こういった人種の特に最低な部分である。何を言っているんだ、といつも思う。お前の言う“不幸”は本当に“不幸”なのか、お前の言う“幸運”は誠意から“幸運”なのだろうか。中身の無い、人から借りた“不幸”や“幸運”など掲げなくとも、自分にとって何が嫌で何が良いのか、その都度考えて動けばいいだけの話だろう。張りぼての“常識”に合わせて無理矢理行動を起こし、それで自分は“憐れではない”と言い聞かせているだけではないか。そうやって何か“正しそうなこと”をした自分を誉めてもらいたいだけではないか。

 大丈夫なんだ。人と違うからといって焦る必要はない。全くない。今のままの自分で、いつも通りの自分で、生きていくしかないのだから。それで今までなんとかやってきたはずだ。これから先、幾多の困難が待ち受け、数多の退屈と戦わなければならないだろうが、そんなのは、いつものことだろう。変わらずなんとかやっていけばいい。ジェンキンスのように。ルーのように。

点数:90/100点
 久しぶりに心から“ステキだ”と思えるショート・フィルムを観た。“不幸”や“幸運”、そして、“恋”などという非常に主観的かつ曖昧な概念をテーマにしながら、その実、極めて論理的に紡がれるストーリー。誰が幸せで誰がそうでないかなんて誰にも分からないし、いつ幸せでいつそうでないかなんて誰にも分からないのである。まぁ、自身が不幸の渦中にあるときは中々そうは思えないものだが、どうだろう。とりあえず、明日は無駄に傘なんか持って外出してみる、というのは。

(鑑賞日[初]:2014.10.23)










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