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17
2015

[No.329] ゴーン・ガール(Gone Girl) <80点>

CATEGORYサスペンス




キャッチコピー:『失踪中の妻エイミーの捜索続く』

 アダムより創られし“完璧な悪魔”。

三文あらすじ:ニック・ダン(ベン・アフレック)とその妻エイミー(ロザムンド・パイク)は、誰もがうらやむ理想的な夫婦のはずだったが、結婚5周年の記念日に突然エイミーが失踪する。警察の捜査と平行して日々熱を帯びていくマスコミ取材はニックに集中。次第に明らかになっていく夫婦の内情やニックの本質を知った聴衆は、ニックこそが妻殺しの犯人ではないのか、との疑念を抱き始める・・・


~*~*~*~


 本作は、鬼才デヴィッド・フィンチャーの記念すべき10作目に当たる映画作品である。デヴィッド・フィンチャーと言えば、やはり『セブン』、『ファイト・クラブ』、あるいは、『ゲーム』といったいわゆる“どんでん返し”作品のイメージが強い。『エイリアン3』の大失態を今でもしつこく覚えているのは、きっと筆者のように陰湿なモンスター・パニック好きだけであろう。

 とはいえ、この“どんでん系監督”というイメージも、近年では少し違ってきている。2002年の『パニック・ルーム』ではまだ初期の名残が若干残っていたかもしれないが、その後に制作した『ゾディアック』、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』、『ソーシャル・ネットワーク』、『ドラゴン・タトゥーの女』では、特にあっ!と驚く結末は無かった。そもそも、初期の2~3作がたまたまエンターテイメントに特化した“どんでん系サスペンス”だっただけで、本来的なデヴィッド・フィンチャーの持ち味は、“上質のサスペンス”なのである。

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 上記の例に漏れず、本作も予告編で煽られているような“謎解き系”のサスペンスを期待してはいけない。この点で本作の宣伝は少し誇大広告なのであって、集客のため仕方なかった可能性を考慮したとしても、あまり誉められたものではないと言える。では、我々は一体本作に何を期待すればいいのだろう。言い換えれば、本作が描くものとは一体何なのだろうか。

 まず、前述のように、本作は“どんでん系サスペンス”ではない。ニック・ダンは別に死人ではなかったし、障害者を装っていたわけでもない。もちろん、舞台が地球だと言うこともハナから分かりきっていた事実だ。

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 また、これも前述の通り、本作は、“謎解き系ミステリー”ではない。確かに、予告編はこの点を煽った作りになっているし、実際、本作序盤は、“ニック・ダンは妻を殺したのか否か”というサスペンスフルな展開が描かれていく。しかし、この展開は、本作全体のだいたい1/3くらいまでの話。

 本作では、中盤直前辺りにおいて、その生死が注目されていたまさにその人エイミー・ダンが実は生きていて、しかも、あろうことか夫を陥れるため、周到すぎる一計を案じた“悪女”である、とのネタばらしが行われるのである。エイミーの独白を以て語られるこのシークエンスでは、彼女が長き歳月を費やしシコシコと画策していた計画過程からニックが陥っている現状のカラクリまでが、簡潔かつ明確に明かされる。物語が中盤にも差し掛からぬ時点でこのようなネタばらしをしてしまうような作品は、決して“謎解き系ミステリー”とは呼べないだろう。

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 では、本作の中盤から先は一体何を描いていくのか、というと、ニックの奮闘とエイミーの逃亡が、まぁだいたい等分で綴られていく。ニックについては、自身の双子の妹及び雇った弁護士と一致団結して“マスコミ”だとか“世間”と戦っていく、という感じ。エイミーに関しては、これまでの美しく完璧な妻というイメージをこれでもかと払拭すべく、大変粗暴で大いに悪辣な様が描かれていく。

 筆者は、この時点で、あ、これは“法廷劇”を描いていくのかしら、と少し思った。ニックの弁護士は一応序盤でも登場していたキャラの立っている男だし、彼が派遣した元シークレット・エージェントの男2人が逃亡中のエイミーを追う、という展開も登場する。したがって、エイミーが仕組んだアングルによる自身の低イメージをなんとか覆すまでのニックの奮闘を描き、終盤では捕まったエイミーとの白熱の法廷劇を描いていく、という可能性も、この時点ではまだ無くはなかったのである。

 しかし、結論から言えば、本作は法廷劇でもない。シークレット・エージェントの男2人は、結局その姿すら登場しなかった。確かに、ニック・妹・弁護士 vs 世間との戦いは、割としっかり描かれる。とはいえ、本作は、彼の物語だけではなく、逃亡中のエイミーの物語をもかなり詳細に描写し始めるのである。すなわち、逃亡中のモーテルで隣人に逃亡資金を根こそぎ奪われた結果、現在でもストーカーギリギリといった感じの高校時代の元カレ(大富豪)のところに転がり込み、最終的には彼を惨殺してニックの元に戻ってくる、という物語である。

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 本作中盤~終盤では、エイミーの常軌を逸した“悪女”ぶりがかなり克明に描かれる。計画成功を確信しての露骨なガッツポーズとか、隣人とニュースを見ていて“エイミー・ダン”の話題になり(隣人は逃亡中のエイミーを“エイミー・ダン”とは認識していない。)、その隣人が“エイミー”を悪く言うと、彼女の飲み物にこっそり痰を忍ばせたり。この辺りの“姑息な”一面から、まず、エイミーって奴は心底しょーもない“悪党”なのだな、という印象を観客に対して繰り返し強調している。

 また、これと平行して行われるニックの“事情聴取”から、エイミーのどす黒い本質が暴かれていく。ニックは、エイミーの元カレ(大富豪とは別のやつ)に交際時のエピソードを聞く。なんと当時のエイミーは、ハンパ無い支配欲で以て彼を飼い殺しにし、たまりかねた彼が音信不通になると、強姦をでっちあげて彼を警察に突き出したのである。このときもエイミーの策略は綿密の極み。状況証拠で言えば完全に黒である彼は、嘆願の結果なんとか強制わいせつ的な格下の罪にしてもらったのだが、変質者リストに載ってしまったため、現在でも苦しい生活を余儀なくされているという。哀れみと同情を等分にたたえた表情の彼は、ニックに声をかける。「ニュースを見てすぐに思ったよ。“今度は殺しか。”って。」

 ここまででエイミーが如何に“悪い女”かという情報は、充分観客に伝わった。そこで今度は、彼女のその悪性が実際に爆発する。つまり、高校時代の元カレのところに転がり込み、自身が監禁・暴行を受けていたという状況証拠を整え、最終的にはセックス中に彼ののど元を切り裂いて絶命させるのである。まるでキャサリン・トラメルのような“恐怖の女”

 多くの鑑賞者が、本作の感想として「女は怖いっていう映画!」と綴っている。しかし、筆者的には、この“恐怖のエイミー”も、本作の本質として適切ではないように思う。確かに、彼女の計画は周到だ。執念も尋常ではない。ただ、いわゆる“ファム・ファタール”を描く映画として、本作の描写はどれも甘い。切り替えは見事だったとしても彼女の計画は半ばにして破綻するし、元カレに対する殺傷のビジュアル的パワーも今どきの作品としてはイマイチ。“現代の悪女”を描くのであれば、よりグロテスクな監禁及び拷問は必須であろう。加えて、“悪女”の本質と言ってもいい“セックス描写”も今ひとつパンチに欠ける。

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 どんでん返しがあるわけでもない、ハラハラする謎解きがあるわけでもない、緊迫した法廷ドラマもなければ、“悪女”の活躍もピンとこない。では、本作の本質は、一体どこにあるのか、と言うと、それはエイミー自身が本作終盤で口にする。

 ニックの“誕生日のプレゼント”として陽性の妊娠検査キットを手渡すエイミー。これほど憎むべき“かすがい”は、映画史上初だろう。彼はもう逃げられない。その絶望の程は、我々観客も容易に推して図ることができる。「君は異常だ!」とニックは、堰を切ったようにエイミーを責める。「確かに、僕はかつて君を愛した。でも、それから僕らがしてきたことと言えば、互いに怒りをぶつけ合ったり、互いを支配し合おうとしたり、そんなことばかりだ。僕らはお互いに苦痛を与え合っているだけじゃないか!」

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「それが“結婚”よ。」
(That's Marriage.)


 個人的に、本作が言いたいことはこのワン・センテンスに集約されているように思った。

 かつて愛し合ったロマンティックな恋人たち。永遠を近い結ばれるそのときが彼らの絶頂であることは、洋の東西、時代の今昔を渡る普遍の共通認識であろう。恋という刹那的な情動を維持することは至難。俺が傲慢になったか、君が怠慢になったか。それは誰にも分からないが、いつしか彼らは傷つけ合う。

 彼らにとって最も不幸なことは、互いが感じる苦痛の元凶を彼ら自身に帰責できない、というところに違いない。すなわち、かつて“愛”と呼ばれたその冷め切った感情を延命させ続けなければならないのは、取りも直さず彼らの“周囲”に原因がある。より端的に言うなら、互いに愛し合っていないのなら、本来、離婚すればいいはずなのである。そんなことは実は至極簡単に導き得る帰結であり、おそらく有史以来全ての夫婦が感じてきた答えであろう。それでも、道を違えることなく互いに傷つけ合う日々を続けるのは、なぜか。それは、“世間体”だとか“子供のため”という夫婦からすればいわば“外的な要因”のためである。

 罵り合い、傷つけ合いながら、それでも周囲のために“完璧なカップル”であろうとする終わりなき営為。“結婚生活”とは、そういうものだろう。未だ誰とも婚姻関係を結んだことのない筆者の浅薄な考えだとしても、大きく的を逸れてはいないはずだ。

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 本作は、ニックとエイミーが繰り広げる一つの“事件”を通じて、以上のような“一般的な結婚生活の本質”を描写してみせる。もちろん、本作で世間を騒がせたこの夫婦が、現実世界に引きなおしてなお“一般的”と言えるかは、はなはだ疑問である。しかし、本作で描かれる“特殊”な部分、特にエイミーに纏わる策略だったり残虐だったりといった要素は、言ってみれば“映画的エンターテイメント・ギミック”だと考えることができる。むしろ、常軌を逸した夫婦の物語を“映画”として鑑賞していた我々は、ラストで提示させるメッセージに共感を覚え、そこではたと気付く。なんだ、俺たちと一緒ではないか。

 そういった意味に限っては、本作を一種の“どんでん系作品”と呼べなくもないだろう。あっ!と驚く結末を期待し、緻密な謎解きミステリーを予想し、スリリングな法廷劇やファム・ファタールの凄惨な活躍に胸を高鳴らせていた我々は、本作のミス・リードにまんまと引っかかったわけである。どうせ“映画の話”だ、つまり、これは“人ごと”だ、と油断していた鑑賞者に対し、本作は、極めて普通の、しかし、誰もが目を背けている“現実”を鋭く突きつける。

 このように考えて、筆者は、本作を素晴らしい“夫婦ドラマ”の傑作である、と思い至り、同時にデビッド・フィンチャーという監督はやはり巨匠だなぁ、と感じ入ったのである。

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 ちなみに、本作の原作小説『ゴーン・ガール』には、スコット・ピーターソン事件というモデルがある。事件の登場人物や顛末は本作とほぼ同じ。異なるのは、スコット事件では妻が死体で発見され、結局夫は死刑確定の上投獄された、という点。しかし、この事件では、警察も妻の殺害方法などの肝心な部分を証明できなかった、というところとスコット自身が投獄されてなお無罪を主張し続けていたという部分から、いわば都市伝説的に“実は本当に無罪なんじゃないの?”と考える者もいるようだ。この点を膨らませたのが原作小説であり、その映画化たる本作においても当然、スコット事件のあり得る“別の答え”を描く、という意図はあったわけである。

 そして、実際の事件と比較してみれば、実は本作が“極めて男性目線で描かれた物語”であることに気付く。愛が消滅し、それでも“完璧な夫婦”を演じ続けるため互いを傷つけ合う男女を本作は描くわけだが、ニックの傷つけ方が“浮気”であるのに対して、エイミーのそれは上述の通り常軌を逸した猟奇的なもの。もっと言ってしまえば、浮気なんてそれこそ一般的な夫でもそこら中でするものだが、エイミーの悪行は思いっきり“映画的ファンタジー”である。

 もちろん、前述のように実際の事件の“別回答”を提示する作品である以上、夫目線でのストーリー展開になることもある意味ではもっともである。しかし、現実世界に引きなおして考えてみても、往々にして夫から見た妻というのは、エイミーのように“理解不能な女”に変わり果ててしまうものなのかもしれない。

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 最後に本作のタイトル『ゴーン・ガール』が持つ意味について。直訳すれば“去ってしまった少女”。しかしまぁ、一義的に考えて、本作で行方不明になったのはニックの妻エイミーという成熟した“女性”であるから、“ガール”というのもいわば言葉の綾、詰まるところ“妻であるエイミー”のことを指すのだろう、と納得出来る。

 しかし、本作を既にご覧になった方はご存じの通り、本作には“ガール”に纏わるキーアイテムが登場する。それが“完璧なエイミー(アメイジング・エイミー)”という絵本だ。幼いエイミーをモデルとして執筆されたこの絵本は空前の大ヒット。ベストセラーとなり、“完璧なエイミー”は知らぬ者のない超有名キャラクターになったのだ、ということが作中で説明される。しかし、絵本のエイミーのように“完璧”で在り続けなければならないというプレッシャーは幼いエイミーを苦しめる重荷となった。これはつまりエイミーにとって過去の“トラウマ”であり、本作における事件の“動機”になる要素。

 彼女は常に“完璧”でなければならなかった。しかし、幼いエイミーにはそれができなかった。理想と現実のギャップに苦しみ、それがトラウマになったのである。では、いつしか彼女も大人になり、ありのままの自分を受け入れることができたのか。つまり、“完璧なエイミー”という彼女にとって忌むべき“ガール”は彼女のもとを去ったのであろうか。答えは当然「否」である。

 “完璧なエイミー”は、未だ彼女の中にいる。去ったのは、“完璧”になれなかったかつてのエイミーだ。すなわち、大人になったエイミーは、“完璧”になる術を得たわけである。それは、言うことを聞かない彼氏を強姦魔として警察に突き出す残虐な行い。そして、自分を裏切った夫を死刑にするため失踪する非道な知略。あるいは、純粋な大富豪の首を切り裂いてまで夫のもとに戻り、子供の存在を介して彼を一生縛り付ける悪魔的本質として表出する。

 これを証明するのは、やはり騎上位中に絶命した憐れな大富豪の存在だろう。彼は、エイミーの高校時代の彼氏であるが、2年間の交際の末、エイミーにフられてしまう。本作を通してエイミーの人生をいわば“逆から”知っていった我々としては、ここは一抹の違和感を感じるところ。なぜなら、彼は“無傷で”エイミーと別れているからだ。これは、すなわち、当時はまだエイミーが“少女”だった、ということを意味している。良い人ではあるがイケていない彼氏。そんな人と付き合っていては“完璧なエイミー”になれない。幼気(いたいけ)な女子高生のエイミーはこの点に苦悩し、彼をフったのだろう。しかし、“完璧”たるためには、それでは足りない。“完璧なエイミー”に不釣り合いな存在は、すべからく、かつ、完膚無きまでに叩きのめさなければならない。事実、穏便に別れた高校時代の彼氏は、その後もエイミーに手紙を送ってくる半ばストーカー的な人物として象徴的に描かれている。これはエイミーの“完璧性”を崩壊させかねない懸念事項だ。したがって、彼は大人となったエイミーの手で見るも無惨に殺害される。“完璧なエイミー”が過去に残した唯一にして最大の汚点として、最も盛大に排除されるのである。(もちろん、エイミーは失踪の当初からこの元カレを殺そうと画策していたわけではない。あくまでも象徴として俯瞰で見るなら、憐れな大富豪の死に意味を見いだすことができる、という話である。)

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 まぁ、このように考えてみると、やはり男性から見た“女性”というのは、到底太刀打ちできぬ“悪魔”に違いないと思える。そして、本作について「女は怖いっていう映画!」と述べる数多の鑑賞者を否定しバカにして偉そうな持論をぶっていた筆者も、精一杯の戦慄を以て翻意しなければなるまい。とりあえず、“完璧”な感想を書こうとして失敗した筆者は、まだ幼気(いたいけ)な心を失っていないのだ、と安心しておくことにしよう。

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点数:80/100点
 最後にも述べたが、タイトルの意味も踏まえて考えるなら、本作の本質として“女性の恐怖”を挙げることも決して間違いではない。また、散々「女性は悪魔だ!」などと言っておきながら、実は筆者は本作を女性と鑑賞したのだが、鑑賞後の彼女の第一声は「これは究極の“愛”やな。」というものであった。女性目線でのこの感想は筆者にとって少し斬新であり、かつ、中々的を射た評でもあるな、と深く感銘を受けたのである。しかし、よくよく思いを巡らせてみれば、こんなものを“愛”などと言われた日には我々男性はたまったものじゃない。危ないところであった。“悪魔”の囁きは、いつも甘美で危険なのである。

(鑑賞日[初]:2015.3.1)













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Tag:これが女の生きる道 劇場鑑賞作品 ダメ男 クソ女

2 Comments

T  

彼女というのは、遥か彼方の女と書く。
女性は向こう岸の存在さ。我々にとってはね。

2015/03/23 (Mon) 02:17 | EDIT | REPLY |   

Mr. Alan Smithee  

Re: タイトルなし

彼方にいてくれる内は良い。
本作を観ると、「嫁」が“家の女”ではないことが良く分かる。
男にとって配偶者をめとるということは、我が家が“女の家”に
なってしまうということに他ならない。

2015/04/23 (Thu) 00:10 | EDIT | REPLY |   

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