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2016

[No.388] シン・ゴジラ <83点>





キャッチコピー:『現実<ニッポン> 対 虚構<ゴジラ>。』

 日本<あなた>は死なないわ。
 官僚<わたし>が守るもの。

三文あらすじ:東京湾横浜沖で発生した原因不明の崩落事故を受け、政府は各幕僚を招集し緊急会議を開催。事故原因について“地震や海底火山の噴火といった自然災害によるもの”との推測が立てられる中、海中から未知の巨大不明生物が現出、鎌倉市への上陸後、甚大な被害を出しながら首都圏への進行を開始する。日本と大怪獣“ゴジラ”の存亡をかけた戦いが、今、始まる・・・

※以下、ネタバレあり。


~*~*~*~


<エヴァ 対 ゴジラ>
 1954年に第1作目が公開され、その後、現在に至るまでシリーズ計28作(及び2作のハリウッド・リメイク)を生み出した大ヒットコンテンツ、大怪獣“ゴジラ”。本作は、そんな怪獣王が銀幕で主役をはる29作目の作品である。

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 総監督は、あの傑作ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出した庵野秀明。この人はもう…『ゴジラ』やってる暇あったら早く『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』やってくれよ…。まぁ、本作が作られた経緯としては、まず、2014年に公開されたギャレス・エドワーズ版の『ゴジラ』が世界的にヒットしたことを受けて、よし、日本でももう一回ゴジラやってみるか!という話が持ち上がり、『エヴァQ』と同時上映のショートフィルム『巨神兵東京に現る』で特撮愛を爆発させた庵野さんに白羽の矢が立ったらしい。

 しかし、話はそれで上手くいったわけではない。『エヴァQ』製作後、鬱になっていた庵野さんは、このオファーを一度断る。それから、本作で監督を務めた樋口真嗣とか周囲のスタッフが庵野さんの背中を押し、結局やることになったそうだ。まぁ、庵野さんの中でゴジラとエヴァのどちらを優先させるかという葛藤や対立があったのかは知らないが、エヴァファンからすれば、冨樫と双璧をなす“ぐーたらクリエーター”こそが、庵野秀明という男なのである。

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 ちなみに、タイトル『シン・ゴジラ』“シン”の意味するところであるが、単純に“新しいゴジラ”という意味での“新”、または、“決定版”とか“原点回帰”という意味を含んだ“真”、あるいは、“神の巨人”たるゴジラを表した“神”などが順当な候補であろう。これは、『シン・エヴァ』で予測されているものとだいたい同じである。

 まぁ、“新”と“真”は比較的しっくりくるからいいとして、“神”っていうのはどうなんだろうな。個人的には、掛詞としてありだと思う。本作のゴジラはいかなる攻撃も受けつけない“完全生物”として描かれているし、それどころか「もしかしたら、“死”すら克服しているかもしれない…。」というセリフがあったりする。また、空気と水さえあれば体内で無限にエネルギーを生成できるというその性質が判明する終盤で、「ゴジラは、我々にとって“福音”でもあるというのか…」と言及されていた。人智どころか“死”という概念すら超越し、人類にとっての“厄災”でもあり“恵み”でもある存在、それはもう“神”と呼んで差し支えなかろう。

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 ちなみに、英語版タイトルは、『Godzilla Resurgence』(ゴジラ・リサージェンス)という。“リサージェンス”と聞いてSFファンが思い出すのは、当然、2016年を代表する“ダメ続編”、『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』。もちろん、本作と『ID4 2』に関連性があるわけではない。“リサージェンス”とは、“再起”とか“復活”とか、なんかそんな意味の単語。“再起動”という意味の“リブート”とは違い、どうやら思想とか信仰とか、そういったニュアンスの文脈で使用されるようだから、やはり原題の“シン”も、先ほど言及した“新”、“真”、“神”あたりが妥当なのだろうな。変わり種では、人類の“罪(Sin)”ではないか、という意見もあるようだが。

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 まぁ、そんな感じで、公開前から色々な思惑や様々な憶測が右往左往していたゴジラ最新作。7月29日(金)の公開初日に早速鑑賞したファンたち(この時点ではおそらく“熱狂的なファン”だろうな。)からは絶賛の嵐を浴びせかけられている本作であるが、まずは、新生ゴジラの概略から見ていこう。

<ゴジラ 対 ゴジラ>
 『ゴジラ』という作品の、そして、キャラクターの歴史は長い。彼が銀幕に初めて登場したのは、今から60年以上前の1954年。この初代ゴジラ、いわゆる“初ゴジ”のキャラクター設定は、ジュラ紀から白亜紀にかけて生息していた海棲爬虫類と陸上獣類の中間生態を持つ生物の生き残り、というものだった。そんな生きた化石が、人間の度重なる水爆実験によって住処を追い出され、挙句の果てに日本に上陸した、というのが、第一作目の基本的なプロットだったのである。

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 本作の新生ゴジラは、この“初ゴジ”に大きくオマージュを捧げたキャラクター。その出生も、確か、太古の海棲生物の生き残りが核廃棄物を大量に投棄された環境に適応し、異常進化を遂げた、という“初ゴジ”とある程度似通った設定だったはずだ。

 “初ゴジ”と本作のゴジラは、そのルックスもかなり似ている。特に顔面部分。キョロッとしたつぶらな瞳なんかは、両者共通の要素だ。

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 しかしながら、両者では、そのボディ部分が大きく異なる。まず、本作のゴジラは、これまでのどのゴジラよりもデカい体長118.5mの巨人。しかし、その割に、前足がすごく小さい。そして、体全体がところどころ腐敗しているような雰囲気。「街中に残されたゴジラの体組織は“腐敗臭”がすごい」というセリフもあったように記憶している(まぁ、それはアメリカの単なる方便だったのかもしれないが。)。

 また、要所要所が赤く発光しているところは、過去のゴジラで言うなら“バーニング・ゴジラ”へのオマージュだろうか。1995年公開の『ゴジラ vs デストロイア』に登場した“バーニング・ゴジラ”は、体内炉心の核エネルギーが暴走し核爆発寸前の状態にある、という設定だった。本作のゴジラは、核爆発寸前とまではいっていないものの、めっちゃ熱い(体温100℃以上)という部分では同じだ。

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 この辺りのキャラクター造形は、過去のゴジラへのオマージュに、庵野監督の独自性たる“巨神兵”をミックスしたということなのかもしれないな。

 あと、本作のゴジラは、形態変化を行う。これって事前に発表されていた設定だったのだろうか。少なくとも、筆者はそんなこと全く知らずに観たので、ゴジラ初登場シーンでは完膚無きまでに度肝を抜かれた。要は、フリーザ様みたいに形態を変化させつつその度に強くなっていくわけであるが、初登場時は、我々が一度も見たことの無い、なんかステゴサウルスみたいなゴジラが登場するのである。よし、頑張って絵にしてみよう。

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 どーん! 筆者の画力ではこれが限界だ。とにかく、ウネウネ動きながら前進するクリックリの目のステゴサウルスが、いきなり登場する。これはビックリした。ちなみに、こいつは、首の横に付いた“エラ”から血みたいな液体を吹き出すが、これはおそらくエラ呼吸を捨てて肺呼吸の形態へと順応していく過程の演出なのだろうな。

 なお、本作のゴジラが披露する変体の推移は、次の通りらしい。第一形態:ほぼしっぽだけのオタマジャクシ(劇中ではしっぽのみ登場)⇒第二形態:キモいステゴサウルス(上述)⇒第三形態:ステゴサウルス直立(前足生える)⇒第四形態:シン・ゴジラ完全体(戦闘力“無限”)。

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 それから、本作のゴジラ、その完全体は、なんとレーザー・ビームを放射できる。ギャオス風に表現するなら“レーザー・メス”だ。これもすごくビックリした。自衛隊による総攻撃でも傷一つ付かない最強のゴジラは、アメリカ軍が投じた地中貫通爆弾(MOPと言うのかな?)によりやっとこさダメージを負う。しかし、これにブチ切れた怪獣王は、それまでの赤から紫色に発光。大きく開いた口からまず(おそらく)可燃性のガスを大量放出し、すかさず火炎放射を行うのである。これだけなら、まぁ、往年のゴジラでも盛んに使われていた“放射熱線”なのだろうか、いやむしろ、それより劣化しているじゃないか、という感じだが、彼はその後、炎の出力を上げ、レーザー・ビームを口から照射し始める。たぶん、彼の喉は溶接トーチみたいな構造になっているのだろう。で、上空を飛行中のアメリカ軍戦闘機を撃墜してしまうのである。

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 しかも、本作のゴジラが有する能力はそれだけじゃない。なんと彼は、口からの“レーザー・メス”に加え、背中から無数のレーザーを四方八方に放射できるのである。さらに、しっぽの先っちょからも同じくレーザーを放つ。よし…よし!頑張って絵にしてみよう。

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 どーん! まぁ…筆者の画力はともかくとして、個人的に、この“ところ構わずレーザーを出せる”という新設定は、少しだけ微妙だった。リアル路線の、あくまでも“生物”としてのゴジラ像からちょっと突き放されたと感じたからである。とはいえ、これもゴジラを“神”として描くための一環なのだとすれば、まぁ、ある意味で筋は通っているだろう。

 さて、そんな本作の感想として、以下では、とりあえず2つの視点から述べておきたい。それは、本作のキャッチコピー『現実<ニッポン> 対 虚構<ゴジラ>。』を分解した2つ。すなわち、“現実 対 虚構”“ニッポン 対 ゴジラ”という両観点からである。

<現実 対 虚構>
 ここでは、“モンスターパニック”としての本作のビジュアル的な部分について、一言言っておきたい。

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 “モンスターパニック”というジャンルの本質醍醐味については、拙いながら当ブログ内で幾度も言及してきた。もちろん、それは、名も無き鑑賞者の独断によるただの“こだわり”の域を出ないものではあるのだが、とにかく、筆者が思う“モンスターパニック”のアイデンティティというのは、“非日常による日常の浸食”である。

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 実在しない架空のギミックが物語の核を担う、という点において、“モンスターパニック”は“ファンタジー”である。しかし、『ネバーエンディングストーリー』や『ロード・オブ・ザ・リング』、あるいは『ハリー・ポッター』などを見ても分かるように、純粋な“ファンタジー作品”は、基本的にその世界観全体を架空のものとして楽しむというジャンルだ。

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 一方の“モンスターパニック”では、原則としてモンスターのみが架空の存在という点が、その本質である。『ジョーズ』における巨大鮫、『トレマーズ』におけるグラボイズ、『ザ・グリード』における深海の怪物、『遊星からの物体X』における物体たち、『グエムル -漢江の怪物-』のキモイ魚、『クローバーフィールド』のクローバー。枚挙に暇はないが、個人的には、現代社会に侵入する唯一のファンタジーギミックとしてモンスターが登場する作品群を“モンスターパニック”と呼びたい。そういう意味では、ゼノモーフ以外も全体として現代科学の延長にある架空のギミックで構築された『エイリアン』シリーズは、“SF”と言うべきだろう。つまり、“モンスターパニック”においては、モンスターのみが“非日常”の存在なのである。

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 そして、“モンスターパニック”の醍醐味は、そんな非日常的ギミックが我々の“日常生活”を侵食していく、という点にこそある。ここがまさに"パニック"たる所以だ。もちろん、日常生活の侵食よりも、どちらかと言えば“人間 vs モンスターのバトル”に重きを置いた作品だって数多存在する。上記の例で言えば、『トレマーズ』『ザ・グリード』『遊星からの物体X』は、どれもいわゆる“日常生活”から離れた一種の“閉鎖空間”が舞台となる。『ジョーズ』も後半の展開では、勇敢な3人の男と巨大鮫との一騎打ちに焦点を絞るべく、日常生活を離れた洋上へと舞台を移す。しかし、『ジョーズ』の前半や『グエムル -漢江の怪物-』、あるいは、『クローバーフィールド』で我々が興奮したのは、非日常の存在たるモンスターが日常生活をかき乱していく、その様であった。言い換えれば、我々が日々生活する“現実”にモンスターという“虚構”が侵入してきたらどうなるのか。これが“モンスターパニック”というジャンルの肝なのである。

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 ここで重要になってくるのが、ビジュアル的な“リアルさ”である。世界観全体を架空の存在で固めれば良い“ファンタジー”とは違い、“モンスターパニック”における架空のギミックはモンスターのみである。つまり、モンスターという虚構の存在と我々が暮らす現実を違和感なく融合させる映像的なリアルさが、このジャンルの大前提となる。“モンスターパニック”の歴史は“リアルさ追求の歴史”と言ってしまっても良いだろう。

 そして、そういった視点から観た本作は、本当に素晴らしい!

 古くは、『原子怪獣現る』に代表されるようなストップ・モーション。『アビス』、『ターミネーター2』、そして、『ジュラシック・パーク』の成功以後は主にCGが担ってきたモンスターのリアルさ。これを一段上のレベルにまで引き上げたのが、POVと融合させた『クローバーフィールド』であろう。一方の日本では、古来より主にスーツアクト、いわゆる“着ぐるみ”が、怪獣映画のビジュアル的リアルさを支えてきた。

 そんな中、個人的に鳥肌だったのは、『クローバーフィールド』の2年前に公開された『グエムル -漢江の怪物-』である。一番ビビッ!と来たのは、冒頭、高架上を走る電車内から芝生を爆走する怪物を撮ったシーン。ここでは、なんというか、怪物が本当にその芝生にいたのである。筆者の知識量や語彙力では説明が難しいのだが、芝生の広場とそこで逃げ惑う人々を俯瞰の視点から広く捉え、あくまでも怪物がその中にいる、という描写。まぁ、そういった描き方はそれまでにもあったのかもしれないが、とにかく、怪物を寄りで捉えるのではなく、その空間全体を広く捉えた上でその中に怪物をナチュラルに配置するという描写が、大変“リアル”だったのである。

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 そして、そういった“俯瞰から空間を広く捉える”というシーンは、本作にも多く登場する。監督である樋口真嗣が「邦画の歴史上一番ヘリを飛ばしたんじゃないだろうか。」とインタビューで言っていたが、東京という街を広く視界に捉えた上で、その中にゴジラが本当にいる、というシーンが、本作にはいくつも存在する。中でも筆者がゾクゾクしたのは、予告編にも登場しているこのシーン。

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 これは素晴らしい。おびただしい数の住宅が密集したこの空間に、ゴジラは本当にいる。もちろん、このような俯瞰からのカットというのは、これまでのゴジラ作品にもあった。しかし、ここまで高い高度からのシーンというのは、着ぐるみゴジラ及びジオラマのセットでは表現の難しい、本作独自のリアル・ポイントであろう。シリーズ史上初めてフルCGで描かれたゴジラが、ここで活きている。また、(おそらくは)あえてゴジラを画面中央でなく上端の方に持ってきたのも、製作者が意図した“リアルさ”追求の表れだと思う。こういった趣向も、往年のゴジラ映画ではあまり見た記憶が無い。

 さらに付け加えるなら、本作のゴジラのしっぽがやたら長いのは、俯瞰で撮ったときの見栄えを考えて、あえてそうデザインしたのではないかな。往年のゴジラ作品くらいの俯瞰撮影ならそうでもないが、本作くらい引きの位置から空撮すると、ゴジラは黒い塊にしか映らない。だから、遠くから見ても動きが出るように、わざとしっぽをめちゃくちゃ長くしたのだと、筆者は個人的に推測している。

 それから、俯瞰ではなく、逆に地上にいる人々の目線からゴジラを捉えたリアル・シーンがこれ。

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 ゴジラ登場を地上からの視点で描くというシーンも、俯瞰シーン同様、過去のゴジラ作品に多く登場する。しかし、このシーンのポイントは、しっぽしか映さないというところだ。ゴジラ上陸という事象をリアルに想定すれば、何も彼の全身がしっかり見える位置からの目撃者ばかりが存在するわけではないのである。モンスターを市民の視点から描き、かつ、その全景を映さないことでリアルさを演出するというこの方法論は、『クローバーフィールド』で大々的に展開されていた。

 以上のようにして、本作では、“モンスターパニック”の神髄の一つである“現実”と“虚構”の戦いが、これまでのゴジラ作品では見られなかったような圧倒的リアルさで描かれているのである。

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 なお、本作の感想では、よく“CGが若干ショボい”と書かれているが、個人的にはそこまで気にならないと感じた。確かに、ステゴサウルスが暴れまわるシーンとか、東京を焼け野原にした後歩き出すゴジラ完全体を背後から撮ったシーンとかで粗さは垣間見える。また、ゴジラの純然たる初登場シーン、すなわち、東京湾からそのしっぽが突き出す場面は、モンスターの初登場がゆえに最も力を入れてほしいところにも関わらず、大変ちゃっちい。しかし、その他、大半のシーンでは、CGの安さなどあまり気にならない。特に、日ごろからB級映画をせっせと鑑賞しているような映画ファンであれば、逆に超一級品の出来栄えと感じられるだろう。むしろ、ゴジラ完全体の戦闘シーンに全力を投じるためいくつかのシーンを捨てたのだとしたら、天晴な好判断だと筆者は思う。

<ニッポン対ゴジラ>
 続いては、“モンスターパニック”としての本作におけるストーリー面に言及したい。本作で神の化身“ゴジラ”と対峙する主人公は、内閣官房副長官である矢口蘭堂(長谷川博己)という男。わきを固めるキャラクターたちは、例えば、内閣総理大臣である大河内清次(大杉連)だったり、内閣総理大臣補佐官である赤坂秀樹(竹野内豊)だったり、米国大統領特使であるカヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)だったりといった、要は、“政府上層部”の関係者たちである。

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 つまり、本作でモンスターと対峙する人間サイドのメンバーは、小さな漁村の保安官やテキサスの集落に暮らす何でも屋ではない。もちろん、密輸船の船長ではないし、川辺で露店を営むダメ家族でもない。ましてや、マンハッタンでパーティの真っ最中だった一介のサラリーマンなどでもないのである。要するに何が言いたいかというと、本作でゴジラと戦うのは、個人ではなく、日本という“国家”なのである。この点を端的に表したのが、本作のキャッチコピー“ニッポン対ゴジラ”なのであろう。

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 実際、本作では、“個”の描写が非常に浅い。主要人物たちの悩みや葛藤などは一応あるものの、それらだってあくまで日本という“国家”を守るための苦悩として描かれている。この手の映画でありがちな、主人公はかつて父親を怪獣に殺された過去がある…みたいな展開は終ぞ描かれないし、ヒロインに恋した主人公が彼女を守るために奔走する…なんてくだりは一切登場しない。

 また、ゴジラによる“被害”という点でも、徹底して“個”の排除が行われている。本作では、『ガメラ3』における渋谷シークエンスのような“リアルな犠牲者”が描かれない。それどころか、実際に市井の人々が犠牲になっている描写は、ステゴサウルスに押し倒されたマンションのあの家族だけなんじゃないだろうか。個人の生命・身体、または、精神における被害を極力描かず、本作では、やはりあくまでも世界の中での日本の立ち位置だったり、経済的なダメージだったり、または総体としての"国民"の犠牲だったりといった“国家”としての被害が中心的に描写される。

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 しかし、これは別に“モンスターパニック”としてダメな趣向ではない。“モンスターパニック”の醍醐味は、先述の通り、“非日常による日常の侵食”なのであって、そこではいかにして非日常と日常とをビジュアル的に“リアルに”同化させるか、というところが争点の一つであった。しかし、“モンスターパニック”に必要とされる“リアルさ”は、ビジュアル的な部分のみにあるのではない。“非日常が日常を侵食してきたとき、日常はどうなってしまうのか”というシミュレーションもまた、“モンスターパニック”の本質なのである。

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 本作は、日本という“国家”全体について、この点のシミュレーションを周到に行っている。そして、それは十二分に成功していると言って良いだろう。念入りなリサーチと緻密なライティングによって描かれるゴジラを前にした日本の対応は、ある意味でポリティカル・サスペンスと言ってもいいような抜群の緊迫感。有事に際してほとんど機能しない“ザ・お役所仕事”の描写もややコミカルでいてしっかりシニカルだし、安保条約に象徴される日本と“かの国”との力関係なんかもきちんと描かれている。ともすれば催眠導入映画になっていたかもしれない会議のシーンだって、矢継ぎ早のカット割りと多彩なカメラワークによって、可及的にエンターテイメント性を保持できていると言って良いだろう。

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 しかし、悲しいかな、個人的にこれはいささかガッカリだった。本作の映画としての出来には、何の文句も無い。全く以て筆者の個人的な趣味嗜好の話である。いらないんだよ、庵野さん。そんな辛気臭い会議室の話なんて、いらないんだ。

 確かに、大枠としては、“日本 対 ゴジラ”というコンセプトでやってくれても全然かまわない。でも、もうちょっと、せめて一くだりくらい、魂を完全燃焼させるベタな“漢”たちの物語を入れ込んでくれてもよかったんじゃあないだろうか。しかも、本作には、それを可能にするフレームが既にあったような気がする。

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 それはすなわち、本作のクライマックスたる“ヤシオリ作戦”である。これは、言ってしまえば“ヤシマ作戦”なんだな。エヴァのテレビシリーズ第6話「決戦、第三新東京市」及び新劇場版『序』において、鉄壁の防御と最強の火力を誇る正八面体の使徒“ラミエル”(新劇では“第6の使徒”)に対処するため、日本中の電力を陽電子砲<ポジントロン・ライフル>に集積、エヴァによる遠距離・精密狙撃で対象の一点撃破を狙ったのが、“ヤシマ作戦"。本作の“ヤシオリ作戦”は、ネーミングも含めて“ヤシマ作戦”を彷彿とさせる。

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 要は、“ヤシオリ”っていうのは、たぶん古事記にある“八塩折”のことなんだろう。古事記によれば、スサノオノミコトがヤマタノオロチを倒す際、オロチに飲ませたのが、“八塩折之酒(やしおおり/やしおりのさけ)”。本作のクライマックスで繰り広げられる“ヤシオリ作戦”は、ゴジラに血液凝固剤を飲ませるというものだから、古事記からの引用であることはおそらく間違いないと思う。ってことは、本作の主人公であり作戦のリーダーでもある矢口さんは、自衛隊が上げてきた正式作戦名を“長い”と一蹴し、もう一つの候補は“子供っぽい”と無下にし、とっさに古事記から絶妙なネーミングを引っ張ってきたというわけだ。

 まぁ、こういう“突然の博識”っていうのは、庵野作品ではたまにあること。“ヤシマ作戦"だって、普段飲んだくれてばかりいるミサトさんが、突然、日本の古名である“八島”と平家物語に登場する遠距離狙撃の話“屋島”を引っかけて、「以後、本作戦を“ヤシマ作戦”と呼称します!」って言いだしたのだし。

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 まぁ、ネーミングは別にいいとして、問題は、この“ヤシオリ作戦”がけっこう不完全燃焼だというところである。もちろん、決して悪くは無い。むしろ、本作全体の雰囲気やテーマからすれば、これ以外には無い素晴らしきシークエンスとも言えるだろう。ギミック的にも、特に爆弾を積んだ電車を何本もゴジラにぶつけるシーンは、"初ゴジ"へのオマージュも含んだ中々迫力のある名シーンだったように思う。

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 でも、もうちょっと現場の描写を入れてくれていたら、もっと熱くなれたんじゃないだろうか。先述の通り、本作では作中一貫して“個”の描写、つまりは、現場の描写が省かれている。それは、クライマックスたる“ヤシオリ作戦”においても同様だ。電車に爆弾を積み込んだ話とか、ゴジラの周囲のビルに爆薬を仕掛けに行った話とか、そういう現場での準備は、一切描かれない。また、日本中の製薬会社協力の元で血液凝固剤を準備する、という話も、描かれるのは、主人公サイド、すなわち、会議室側での交渉過程のみ。

 まぁ、確かに、“ヤシマ作戦”においても、実際の準備過程が詳細に描かれることは無かったのだが、同作戦ではその代わり、シンジくんの心の葛藤がクライマックスを大いに盛り上げるギミックとなっていた。もちろん、"国家 vs 怪獣"を描く本作では、主人公の個人的な悩みを起爆剤にすることはできないだろう。しかし、本作には“ヤシマ作戦”では前面に押されていなかった“日本という国家の総力を結集する”というテーマがより色濃くあるのだから、逆に作戦準備の過程を詳細に描き、ゴジラ…“日本”を、なめるなよ…!っていう大団円にしてくれたら、ものすごく盛り上がっただろうに…。

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 まぁ、それは本当にあくまでも筆者の個人的な注文だし、そんな展開など無くとも、いや、そんな“ファンタジー”な展開を採用しなかったからこそ、本作は、世界に対しても堂々と宣戦布告できるレベルの“傑作怪獣映画”に仕上がったのであろう。

<ヒト 対 使徒>
 最後に、本作のラストシーンの意味について、現時点での筆者の予想を書いておく。全てが丸く収まった大団円、エンドロール直前のラストカットでは、ゴジラのしっぽが意味深に映し出される。そして、そのしっぽの先端部分には、なにやらいびつな突起がいっぱい生えているのだが、その中には、なんだか人間に見えるものも混じっているのである。さらに、筆者にはよく見えなかったのだが、なにやらしっぽの先っちょの中で人間の影がうごめいていたという目撃情報もあるようだ。さて、これはいったいどういうことなのだろう…?

 再鑑賞時に確認したところ、しっぽの中の人影は無かったが、しっぽからは複数の“人間”が生えていた。絵にしてみるとこんな感じだ。

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 まず考えられるのは、ゴジラから新たに“ヒト”が生まれようとしているという展開である。“神”に匹敵する存在となったゴジラは、まるでリリスのようにその体から新たなる“ヒト”を生み出しているというわけだ。いたるところにエヴァとの類似点が見られる本作だから、これは十二分にあり得る設定であろう。そして、その先を考えてみれば、ゴジラは凍結されたけれど、今度はゴジラの力を持ったヒトが生まれ、人類の敵になるという続編が想定できる。あるいは、デビルマンや仮面ライダーのように、人類の敵であるゴジラの力と人間の心の両方を有した“ヒーロー”が誕生するという妄想も可能だろう。

 とはいえ、その設定で続編を作るなんてことはあり得ない。そんなもんはもう『ゴジラ』でもなんでもないのだから、こんなにも特撮を、『ゴジラ』を愛している庵野さんが、そんなしょーもないことをするはずがない。というわけで、ゴジラは“ヒト”の要素を持っているという設定はありだが、そこからの続編を想定するのは無しだ。

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 次に、なにかしらの理屈に固執するのではなく、単に監督から観客へのメタなメッセージとして考えるのはどうだろう。つまり、突如降って涌いた“化け物”であるはずのゴジラの中にも“人間”がいるという描写は、人類を滅亡に導く災いは人類にこそ原因があるというメッセージではないか、という考え方である。この場合、しっぽの中に人間がいることには特別の理屈を要しない。単にメタフィクショナルな描写として理解可能である。

 とはいえ、やっぱりこれも無しだろう。仮に幾分メタなメッセージを含んでいたとしても、そこには必ず何かしらの理屈が存在しているはずである。筆者は庵野さんの全てをすっかり熟知しているわけではないけれど、少なくとも唐突に理屈なきメタを押し付けてくるような監督ではないはずだ。だいたいからして、本作のゴジラは核廃棄物という人間の愚かしさのせいで怪獣になったと説明されるのだから、その出生によって既に上記メッセージの伝達は済んでいる。結局どこに消えたか最後まで分からなかった牧博士(写真:岡本喜八)も、人類の愚かさを強調していたではないか。というわけで、監督からのメッセージという発想はありだが、その内容が人類への警鐘というのは無しだ。

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 筆者が引っかかっているのは、まさにこの“牧博士はどこに消えたのか?”という部分なのである。自らの妻を死に追いやった放射能を憎み、自らの妻を見捨てた日本を憎んだこの科学者が、結局死んだのか、それともどこかに雲隠れしたけど生きているのかは、作中明確に語られなかった。プレジャー・ボート“Glory Maru(グローリー丸)”にゴジラの細胞膜に関するヒントと革靴だけ残して、彼はいったいどこへ消えたのだろうか。

 この疑問に対して、筆者はこう思う。牧博士はゴジラと融合したのだ、と。

 つまり、往年のゴジラ作品で例えるのなら、『ゴジラ vs ビオランテ』と類似した設定が採用されたのではないか、と思うのである。同作のゲスト怪獣であり、個人的に全ての怪獣の中でも一番カッコいいと思うモンスターが、バイオ怪獣“ビオランテ”。彼は、白神博士というマッド・サイエンティストの手によって、博士の亡き娘の細胞とバラの細胞、そして、G細胞(ゴジラ細胞)を融合させて生み出された怪物である。本作のゴジラの出生は、このオマージュになっているのではないか。

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 また、牧博士が書き残したメモも個人的には引っかかっている。

 “私は好きにした。君らも好きにしろ。”

 牧博士のこの書置きの意味は、作中で一応解釈されていた。確か、「私はもう人間に失望したからゴジラを解き放つ。ゴジラは“神”だ。さぁ、どうする?愚かにもまた核に頼り自滅の道を進むのか?それともその他の賢明な解決を模索するか?」みたいな感じだったと思う。しかし、この博士の書置きは、作中で極めて意味深な扱われ方をしている。つまり、全編を通してハキハキしゃべる主人公の矢口さんが唯一小声で呟いた、「博士は最後に何を“好きに”したんだ…?」のシーンである。映画に限らず、物語の中で意味深に描かれるシーンというのは、製作者からのメッセージだ。意味深に描かれるからには、そこには必ず“深い意味”が存在する。書置きの一義的な意味は上記の通り博士からの“挑戦状”だったとしても、物語上、必ずもう一つの“答え”があるはずなのである。

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 筆者は、その“答え”こそが、ゴジラと牧博士の融合という“ゴジラの出生理由”、あるいは、“牧博士の消息”だと考える。人類に絶望し、日本を見限った牧博士は、ゴジラの前身たる海棲生物を東京湾に連れてくる。そして、何らかの方法で自らの肉体をその海棲生物と融合させた。これが、ゴジラ誕生に至る顛末なのではないかな。

 前述の通り、本作のラストカットでは、ゴジラのしっぽから生えているヒトを描くことで、ゴジラにはヒトの要素が入っているということを示唆している。つまり、本作におけるゴジラのしっぽは、ゴジラとヒトが融合していることの象徴だ。そして、これも前述の通り、意味深に描かれていた矢口さんの小声シーン。この直後にインサートされるのが、活動停止中のゴジラのしっぽが「ピキッ!」と音を立てるカットなのである。ヒトとの融合の象徴たるゴジラのしっぽを、「牧博士は最後に何を“好きに”したんだ…?」という意味深なセリフの直後に入れ込んでいる以上、ゴジラは牧博士と融合したと考えざるを得ない。

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 さらに、この“ゴジラと牧博士の融合”という事象をより俯瞰で考えるとこうなる。放射能汚染された極限の環境下で生息する“最強の生物”と自らを絶滅の危機に陥れるほど科学力を進歩させた“知的生命体”。この2つが融合することで、“神”が生まれる。そう、本作のゴジラ誕生は、言ってみれば“生命の実”を持つ使徒“知恵の実”を持つヒトとの接触なのであって、つまるところ、セカンド・インパクトであり、人類補完計画であり、ガフの扉が開くということであり、要するに、やっぱり『エヴァ』なのである。

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 ゴジラを“神”と捉え、その出生を海棲生物と牧博士の融合であると考えるこの説は、『エヴァ』とのシンクロニシティという点でも極めて説得的だと思う。つまり、まとめると、本作ラストシーンでゴジラのしっぽから人間が生えていたのは、「ゴジラの出生は海棲生物と牧博士との融合なんだよ」という監督からのメッセージ、ということになる。

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 それから、まぁここからは妄想なんだけれど、牧博士はなぜゴジラと融合したのか、について考えを述べる。ここでは、牧博士がグローリー丸に残した“折り鶴”の意味から、二通りの案を提示しておきたい。

 牧博士は失踪する前、つまり、ゴジラと融合する前に折り鶴を残した。それは、一義的には作中で説明された通り、細胞膜の構造だったか、なんかの微生物の分子構造だったかを解き明かすためのヒントである。しかし、“紙を折る”という行為を示唆するためだけなら、別に折り鶴を残す必然性は無い。紙飛行機だっていいわけである。つまり、牧博士がわざわざ鶴を折ったことには意味がある。

sgⅨ


 折り鶴を見た我々が即座に抱くイメージは、“平和”である。本作では、原爆投下直後の原爆ドームの画像が挿入されるシーンがあったり、全体として初代ゴジラを踏襲した“核(兵器)への警鐘”というメッセージがあるから、なおさら“折り鶴=平和”という印象を抱きやすいだろう。

 これを前提にした一つ目の案は、牧博士の宣戦布告説である。つまり、放射能によって命を落とした妻を見殺しにした日本という国を亡ぼすため、牧博士はゴジラになった、ということである。牧博士は、日本に復讐するため、自らの魂と肉体を犠牲にして、悪魔の力を手に入れたのである。そして、彼は日本という国家と戦争をするに際し、フェアプレーの精神からゴジラ凍結のヒントを残した。それが細胞膜の構造図であり、紙で折った鶴だったわけだ。

 この場合、鶴を折った意味は、血みどろの戦争に際しあえて平和の象徴たる鶴を折るという皮肉、あるいは、それでも凍結という平和的な解決を日本に期待する(無意識の)祈り、のいずれかになるだろう。個人的には後者が有力だと思う。

sgⅤ


 もう一つの案は、牧博士=碇ゲンドウ説である。すなわち、牧博士は、死んでしまった妻にもう一度会うためにゴジラになって神の力を手に入れた、というわけである。まぁ、ヒトと融合して神になったゴジラの体内では霊体のような状態で死んだ者とも自由に交流できるのか、神の力を持つゴジラなら死んだ者でも一から再構築できるのかは分からないが、『エヴァ』とのシンクロニシティという点から考えるとこの説もあり得るのではないだろうか。

 そして、この場合、折り鶴が持つ意味合いは、広い意味での“願い”ということになる。平和の象徴でもある折り鶴だが、もとはと言えば必ずしも戦争と一対一で対比されるものではない。人は、何かしらの願いを成就させるため、例えば、病床に臥した愛する者の回復を願い、千羽の鶴を折る。牧博士の妻は“放射能の影響で死んだ”と作中で説明されるが、そうであれば、おそらくは即死でなく長い闘病生活を経ての死であっただろう。きっと牧博士は、妻の回復を願い、千羽鶴を折ったのだ。あるいは、妻自身が、死への恐怖に押しつぶされそうな自分を鼓舞するため、ないしは最愛の人を失う絶望に打ちひしがれそうな夫を励ますために、鶴を折り続けたのであろう。

 もちろん、この千羽鶴のエピソードは、先述の宣戦布告説にも適用可能である。宣戦布告説の場合は、敵に対する憎しみを表明するアイテムということになり、碇ゲンドウ説の場合は、やっと元気な妻に会えるという喜びの表明、すなわち、願いが成就したことを表すアイテムということになる。

sgⅧ


 …とまぁ、独断的な妄想を延々と述べてきたが、碇ゲンドウ説は、ラストシーンの描写と矛盾している気もする。ラストシーンではゴジラのしっぽからヒトが生えているわけだが、牧博士と妻の2人ではなく、なにやらワサワサと複数人生えている。また、“ヤシオリ作戦”中にゴジラがしっぽからレーザー・ビームを出したシーンではたぶんまだ生えていなかったから、あいつらは、おそらくゴジラの凍結間際に生えてきたのだと思う。つまり、沈没寸前の泥船からヒトの要素が脱出しようとしているというか、または、敗北を予感したゴジラが第5形態に進化しようとしているというか、なんかそんな感じだと思うのである。

 これまでのゴジラから大胆に設定変更して追加された“形態変化”だから、第5形態への進化が間に合わず凍結された、というオチはあり得るかもしれない。で、その場合は、きっと渚カヲルみたいな人間型の使徒が生まれてくるのだろう。名前は…カヲルくんに倣って、“ゴジラ”を一字ずつズラすと“ザズリ”だな。名前からして、14歳の女の子だ。渚ザズリちゃん。きっと、こんな感じに違いない。

sgⅣ


 いや、やっぱこれは無いか…。

点数:83/100点
 なんだかとりとめのない妄想をいっぱい書いてしまったが、総体として、本作は世間で言われている通りの“傑作”である。『シン・エヴァ』の滞りに対する免罪符として十分通用する秀逸な“モンスターパニック”作品だ。子連れで観に行くと子供が寝てしまうか、あるいは、何かしらのトラウマを負ってしまうかもしれないが、来るべきお盆休みに観るべき作品を探している、という人には、ぜひオススメしたい良作である。あ、それと、アメリカ特使のパタースンさんを演じた石原さとみは、相変わらず強烈に可愛い。なぜか少し前からゴリ押ししている英語力も存分に活かされている。筆者同様、石原さとみファンのおっさんは、お盆休み中に何度も劇場へと足を運ぶべきであろう。

(鑑賞日[初]:2016.7.30)
(劇場:OSシネマズ ミント神戸)

(鑑賞日[2回目]:2016.8.5)
(劇場:TOHOシネマズ梅田)














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