09
2016

[No.389] イット・フォローズ(It Follows) <72点>

CATEGORYホラー




キャッチコピー:『“それ”はずっとずっと憑いてくる』

 肉欲に引き入れられる人々は、陥穽(かんせい)にはまった兎のごとくもがき苦しむ。

三文あらすじ:最近付き合い始めた年上の男と一夜を共にした19歳のジェイ(マイカ・モンロー)は、突然その男に拘束され、“それ”をうつした、と伝えられる。“それ”は、人の形をしているが他人には見えず、歩くスピードはゆっくりだが対象が死ぬまでどこまでも追ってきて、そして、性行為によって人にうつすことができる。半信半疑のジェイだったが、彼女はほどなく男の話が真実であることを知る・・・


~*~*~*~


 2015年に公開され各方面から絶賛された“異色の”(あるいは、“好色”の)ホラー映画。映画批評家のレビューを集約し百分率化するサイト“Rotten Tomatoes”では、驚異の97%を叩きだした。97%と言えば、なんとあの大傑作『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』と同ポイントなのである。これはスゴイな(もっとも、本作の前年に公開されたホラーの傑作『ババドック ~暗闇の魔物~』の98%には及んでいないが。)。また、個人的には、クエンティン・タランティーノが絶賛したということで、少し注目していた作品でもある。

if1.jpg


 また、これまた個人的に本作に惹かれていた理由は、そのプロット。すなわち、軽々しくカーセックスに興じたビッチが謎の怪異に追い回されるという、そんな“勧善懲悪”なプロットである。そうだ!そうだ!リア充は全員追いかけまわされて、挙句の果てには爆発してしまえ!…なんて、自らのささやかな身の覚えを棚上げして、筆者は一人息巻いていたのであった。

if2.jpg


 で、その内容であるが、これは確かに素晴らしかった。“映画批評家”ってのは、やっぱり伊達じゃない。彼らが寄ってたかって“おもしろい!”という作品は、やっぱりおもしろいのである。

 監督は本作以前ではほぼ無名のデヴィッド・ロバート・ミッチェルという男。彼は同時に脚本も担当している。その脚本の作り込みは言わずもがな、撮影方法もなかなか斬新で素晴らしい。本作では、既に使い古されつつある“長回し”が何回も使用されるが、『トゥモロー・ワールド』や『バードマン』をそのままパクるのではなく、カメラを中心にぐるっと一周回して撮るというカメラワークが多用される。これが抜群に効果的だ。特に、主人公ジェイが、自分に“それ”をうつした男の素性を探りに彼の母校を訪れるシークエンス。ここでは、始めはめちゃくちゃ遠くの方にいた“それ”が、カメラがぐるっと一周回って戻ってくると徐々に、しかし、確実に近づいてきているという恐怖が効果的に演出されている。

if3.jpg


 また、音楽。これも本当に素晴らしい。往年のホラー映画を思い出すようなちょっと懐かしい楽曲。筆者はジョン・カーペンター作品をイメージしたが、まぁ、おそらくは80年代かそれよりもっと前のホラー映画全般を念頭に置いて作曲されているのだろう。ディザスターピースなるよく分からない人物が手掛けたそれらの楽曲たちは、全体として本作が有する“古き良きホラー映画”の雰囲気を完璧に補完している。

if4.jpg


 主人公ジェイを演じたマイカ・モンローの演技も素晴らしい。本作で注目され、その後、なんの因果かモレッツちゃん主演の“カーセックスSF”『フィフス・ウェイブ』にミシェル・ロドリゲスばりの好戦的な美少女役で出演。ついこの間は、2016年を代表する“ダメ続編”『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』でホイットモア大統領の娘役に抜擢された。まぁ、ご覧のように、本作以降に彼女が出演した作品は軒並み“クソ映画”であるから、彼女の今後のキャリアラインが若干心配ではあるが、強さとあどけなさとエロさを兼ね備えた良い女優であることは間違いない。個人的には、コメディエンヌにシフト・チェンジしてもやっていけるのではないかな、と思う。

if5.jpg


 さて、本作で物議をかもすのは、やはりそのラストの解釈であろう。本作はかなり尻切れトンボな終わり方をする。クライマックスでの“屋内プール感電作戦”が失敗に終わり、遂にジェイはいいヤツだがいけてない幼馴染ポール(キーア・ギルクリスト)とセックスし、彼に“それ”をうつす。男目線で見るなら、ポールのこの初体験は、極めてヒロイックな童貞喪失ということになるだろう。“雄”として一人前になり、同時にその快楽行為は愛する女性を救うことにもなるのだから。

if6.jpg


 で、その後、歩道を歩く2人。しっかりと手をつなぐその様は、既に立派な“恋人同士”である。あぁ、ポール、良かったなぁ。でも、どうするの?結局あのプールで“それ”が死んだとは思えないし、どうやって決着を付けるのだろう……終幕!ここで終幕なのである。

if7.jpg


 このラスト・シーン及びその後の展開について一応筆者なりに考えてはみたのだが、中々すっきりした解を導くのは難しい。とりあえず、ここでは二通りの案だけ提示しておこう。それは、すなわち、“バッド・エンド説”“準バッド・エンド説”である。

if8.jpg


●バッド・エンド説
 本作のラストは“バッド・エンド”である、つまり、“それ”はまだ去っておらず、ジェイとポールは結局死んでしまう、という説は、本作の解釈としてよりストレートなものに思える。まず前提として、以下に作中明らかになった“それ”の性質をまとめてみる。

・人の姿をした怪異
・その姿は変幻自在
・宿主が死ぬまで追ってくる
・現在とその直前の宿主だけに見える
・宿主以外の者も物理的な接触は可能
・宿主の殺害方法は怪力による性行為
・移動手段は徒歩のみ
・水中も移動可能
・性行為で他人にうつすことができる
・宿主が死ぬと直前の宿主に戻る


 
 作中で明確な描写があったのはこれくらいだったかな。よって、ジェイとポールが死亡するというラストをより正確に言うなら、まず、今現在“それ”のホストであるポールが殺害され、次にその直前の宿主であるジェイが殺される、という順番になるだろう。

 そして、上記性質からも明らかなように、結局“それ”を倒す方法は不明のままである。映画作品の立証責任はすべからく製作者サイドにあり、映画上描かれなかったことは不存在と捉えるべきだ、と考えるなら、“それ”は絶対に倒せないという結論になる。そして、これを前提にするのなら、人類が“それ”から逃れる術は、“それ”より早くセックスをし続けるしかない、ということになるのである。

if9.jpg


 では、本作ラストのジェイとポールは、他人にうつすことで“それ”から逃れるという解決策の実行を決意しているかと言えば、答えはNOだろう。“それ”をジェイから引き受けたポールは、車で町を流しながらコール・ガールの二人組に近づくが、そのまま素通りしている。グレッグが大学生っぽい女の子にうつしたときと対比するなら、それは、彼が他人にはうつさないという選択をしたことの表れだ。それに、他人にうつすという解決策は、まさに本作が延々と描いてきたものであり、かつ、ジェイが散々失敗してきたものでもある。“オチ”というからには、ちゃんと何らかの形で物語が結ばれていなければならない。今までと全く同じ展開のまま終わっていくのでは、それはもう真っ当な物語とはいえないのである(まぁ、“まだ恐怖は終わっていない…”というラストはホラー映画の定石であるが、本作はどうやらそんな雰囲気ではない。何かしらの明確な“オチ”を予想するための手がかりがいくつか配置されている。)。

if10.jpg


 つまり、バッド・エンド説の場合、ジェイとポールは“それ”から逃れるために死を選んだ、ということになる。この結論を根拠づける手がかりの一つは、ジェイとポールが歩道を歩くラスト・シーンの直前、めがねっ子が“拷問”についての文献を読むシーンである。出典が分からないのが悔しいところなんだけれど、要約すると「拷問の苦痛の本質は肉体的な痛みにあるのではなく、自らの“死”が避けがたいものであったということを実感する点にこそある。」という感じになるだろうか。この引用は、ジェイの置かれている状況を指し示した明確なメッセージであろう。

(後日追記:ふと思い出したのだけれど、めがねっ子が読んでいる文献はドストエフスキー『白痴』だな。序盤で読んでいたこの小説を彼女は当該シーンでジェイに読み聞かせたのであろう。『白痴』についてWikipediaでちらっと調べてみたところでは、同作の主人公ムイシュキン公爵とヒロインのナスターシャを本作のポールとジェイに重ね合わせて理解できそうにも思う。ただこればっかりは『白痴』を一度ちゃんと読んでみないことにはなんとも言えないので、“『白痴』とのシンクロ説”については、今回は割愛する。)

if11.jpg


 ここでポイントなのは、死は“避けがたい”ものである、と強調されている点。めがねっ子からジェイ&ポールへの追悼のメッセージではないだろうが、製作者が本作のラストを暗示して挿入したという可能性は十分にある。ジェイはバタバタと見苦しく逃げ回っていたけれど、結局のところ、人はみな死ぬ。問題は、いつ死ぬかではなく、どう死ぬかだ。そして、本作で嫌というほど描かれたように、人はセックスをする生き物である。今では、それを“娯楽”として楽しむ人は山ほどいるが、単なる生殖行為に“愛”を求めるのが人の本来的な、根源的な本質である。つまり、本作の場合、“どう死ぬか”とは、“最後に誰とセックスして死ぬか”、言い換えれば、“誰を愛して死ぬか”ということに他ならない。

if12.jpg


 ジェイは、ラストでポールを愛した。“それ”に憑かれるまでは、背伸びだったり憧れだったりという行動原理で性交渉を行ってきたジェイは、ラストで本当に“愛”のあるセックスをする。まぁ、あんな状況で愛あるセックスができるなら、ジェイという女は真性のキ○ガイではないか…という意見もあろうが、これはあくまでも本作が映画としてそういう描き方をしているのではないか、という提案である。

if13.jpg


 一応、ジェイとポールのセックスが愛あるものだったということを示唆するヒントとして、キスを挙げることができるのではないだろうか。キス、口づけ、口吸い、接吻、チュウ、ベーゼ。呼び方は様々だが、互いの唇を重ね合わせるという作為は、ときに“愛”を象徴するアイコンとして描かれてきた。例えば、90年代を代表するロマンティック・コメディ『プリティ・ウーマン』において、ヒロインであるコール・ガールのビビアンは、仕事上のセックスではキスをしない。彼女がリチャード・ギアとキスをするのは、彼を心から愛した証だったのである。

if14.jpg


 本作でジェイのセックスが描写されるのは、ことの発端たるヒューとのカーセックス、“それ”を引き受けてもらうためにグレッグとした病院でのセックス、そして、“プール大作戦”が失敗に終わった後のポールとのセックスの3回。ボートで遊んでいた若者にうつすためのセックスが1回あるが、その本番は描写されない(しかし、あのボートには3人ほど乗っていたから、もしかしたらそこで複数回稼いでいるか?“それ”をうつすという意味において、2人目以降は不必要だが。)。そして、明確な描写があったものの内、ポール以外の男とのセックスでは、キスシーンが無いのである。もっとも、ヒューとのカーセックスに関しては少し怪しいが。一応、顔と顔のすれ違いざまのタッチくらいの接触は描かれている。まぁ、この時点で露骨にキスを避けているのも不自然だしな。とはいえ、やはり、ポールとの騎乗位セックス時ほど明確なキス描写は無い(この場合、ジェイとヒューが浜辺でしていたような“前戯としてのキス”はカウントに含まない。あくまでも“セックス中のキス”が問題となる。)。

if15.jpg


 というわけで、ジェイは本当にポールを愛し、彼とともに死ぬことを選んだのである。ラスト・シーン、歩道を歩く2人の背後には、明らかに“それ”らしき人影が映っているが、2人はもう“それ”から必死こいて逃げる気がないのだろう。人間、死ぬときは死ぬ。本当に愛する人を見つけることができたのだから、あとは、死に追いつかれるまで、全力で愛し合うだけだ。そんなラストである。

if16.jpg


 もちろん、なんでだよ!真実の愛に気付いた2人が力を合わせて“それ”から逃げ続けるっていうラストかもしれないじゃないか!という意見は、至極もっともなものだろう。だが、仮にそうだとしたら、車とか、もっと言うと飛行機とかに乗っている2人を描いて終幕の方が分かりやすい。とはいえ、“場所”を議論の対象にするのなら、冒頭のように海を背にした砂浜の方が、2人の“死”という選択をより如実に表現できるではないか!という意見は、正直耳が痛い。

●準バッド・エンド説
 そんなわけで、準バッド・エンド説、すなわち、大枠としてはまだ“それ”の脅威は去っていないものの、真に愛し合う2人が力を合わせて“それ”から逃げ続ける、という解釈についても、一考に値する。

 ジェイとポールが真に愛し合った恋人である、という点については、先述の“キス・シーンの有無”から一応根拠づけられるだろう。一方、めがねっ子の引用に関しては、異なる方向からの解釈が必要だ。すなわち、2人が逃げ続けるというラストを想定した場合、めがねっ子が引用した拷問についての一節は、“死”は避けがたいものであるが、愛し合う“ヒーロー”と“ヒロイン”はその運命に立ち向かう、という前向きな展開の礎としてのギミックになるだろう。

if17.jpg


 また、筆者は、準バッド・エンド説を支持する根拠として、ジェイとポールが“固く”手を繋ぐという描写を挙げたいと思う。ラスト・シーンで仲良く手を繋ぎ歩道を歩いているジェイとポールであるが、カメラはその繋いだ手をクローズアップする。そうすると、彼らは“ぎゅっ!”と固く握りなおすのである。これは、確固たる意志の表れなのではないかな。つまり、“それ”から逃げ通してみせる、という決意の表れ。

if18.jpg


 また、ジェイが繋いでいるのが、ギプスをはめた方の手である、という点もポイントだ。ジェイが右手にギプスをはめているのは、グレッグの別荘に襲来した“それ”から逃げるため車を運転して事故を起こし、骨折したからである。しかし、彼女が右腕を骨折しギプスをはめるという設定は、物語上必然のものではない。もっとひどいカー・クラッシュからおでこの傷一つで生還する主人公など星の数ほどいるのだから、わざわざはめさせたギプスは、何かしらメタファーであると考えても構わないだろう。

if19.jpg


 ギプスというのは、骨折の治癒を補助するために装着する包帯材料(または包帯法の略称)である。映画上のメタファーとして考えるためにより抽象化していくと、ギプスとは“怪我”の象徴であり、もっと広く“傷”の象徴であると言うことができる。では、ジェイは、純粋な怪我という意味以外においても“傷”を負ったキャラクターだったか。負っているのである。もちろん、今回の一連の騒動による精神的な疲弊ではない。古来より“嫁入り前の娘を「傷物」にされた”などと言うように、貞操観念の低下、あるいは、欠落は、“傷”と表現することができる(まぁ、日本でたまたま“傷物”という表現があるが、こういった発想は文化を問わず存在するものだろう。)。

if20.jpg


 では、ジェイは、貞操観念の欠落した“ビッチ”なのか。ビッチなのである。物語はほぼジェイが“それ”の恐怖にさらされるところから始まるから、本作以前の彼女がどれほどヤリ○ンだったかは明確でないが、細かなセリフ(妹が言う「“また”彼氏ができたのよ」であったり、ジェイ本人が言う「高校のときグレッグとは一回ヤってるから」であったり。)で補完されている。もちろん、彼女は一介の田舎娘であるから、夜な夜なクラブ通いをして男漁りをするような生粋のビッチではない。しかし、決して“21世紀のマリア”と呼べるほど真面目なわけでもなく、まぁつまるところ、今どきの若者は貞操観念が欠落している、というオヤジ臭い見解を象徴するようなキャラクターになっているのである。

if21.jpg


 で、そんな彼女の“傷”を象徴するアイテムとしてギプスがあるわけだが、あえてそれをはめた右手の方をポールに繋がせ、両者の手を固く握らせたラスト・シーンには、“傷物”である自分自身を受け入れて2人で強く生きていくというメッセージがあるように思えるのである。言い換えれば、“過去の「過ち」を受け入れる”ということだ。淡い大人への憧れだけで軽々しくセックスしていたかつてのジェイ(ヒューとのカーセックスの後、彼女は明確に“大人への憧れ”を語っている。)。そんな自身の“不貞”によって、彼女は怪異に苦しめられ、少なくとも男性2名を直接的に死に追いやっている。その象徴が、右腕のギプスだ。

if22.jpg


 しかし、別にセックスという行為自体が悪ではない。悪かったのは、何の覚悟もなく性行為に及んでいたという、その点である。セックスはファッションではない。“神聖な儀式”というのも違うが、少なくとも、人間にとっての性交渉は、単なる粘膜の接触を超えた意味のあるものである。そして、ジェイは、本作ラストでその意味を見出した。背が高いわけでも、マッチョなわけでも、オシャレなわけでもない。しかし、自分のことを一番良く理解してくれ、自分の“過ち”も受け入れてくれる男性。幼馴染であるポールと愛し合ったジェイは、2人で闘っていく“覚悟”を決め、彼の手を強く握った…。

if23.jpg


 こういう解釈もありなんじゃないかな。ラスト・シーンのギプスには何やらマジックで文字が書かれていて、その内容が分かればもうちょっと検討できるかもしれないのだが、筆者には読み取れなかったので、現時点では以上の理解が限界である。まぁ、バッド・エンド説、準バッド・エンド説のどちらを採用した場合においても、監督からのメッセージは、若造ども、セックスしてもええけど、ちゃんと覚悟決めてやれよ!というおっさんからの優しき教訓になるだろう。

点数:72/100点
 極めて秀逸なホラー作品。“それ”の設定を思い付いた時点で本作の成功はある程度約束されていたとも思えるが、その設定に甘んじることなく、非常にセンス溢れる仕上がりとなっている。夏真っ盛りだからといってウサギのようにヤりまくっているそこの若者、調子に乗っていると思わぬ罠に落ちてしまうぞ。

(鑑賞日[初]:2016.8.8)






イット・フォローズ [Blu-ray]

新品価格
¥3,926から
(2016/8/9 13:21時点)


貞操の幅と限界



関連記事
スポンサーサイト

Tag:青春映画 これが女の生きる道

0 Comments

Leave a comment