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キャッチコピー
・英語版:unknown
・日本語版:本当の幸せは、限りなくシンプルなものである。

 今、終わらぬ夢のその先に、僕は。

三文あらすじ:コンピューターに支配された近未来。寂れた教会にこもり数式"ゼロ"の解明に勤しむ天才プログラマー、コーエン・レス(クリストフ・ヴァルツ)。彼の人生は、ある女性ベインズリー(メラニー・ティエリー)との出会いを機に大きく動き始める・・・


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 前回、巨匠テリー・ギリアムの傑作SF『12モンキーズ』を鑑賞して、あぁ!そうか!ギリアム氏も"物語の力を信じた男"(要は、現実に馴染めないボンクラ)だったか!と改めて感銘を受けたので、今回は、2014年に公開された(日本だと2015年)同監督作品『ゼロの未来』を観てみた。すると、これがまぁ、ある意味で本当にビックリ。衝撃の所以は、その一貫性だ。『未来世紀ブラジル』も、『12モンキーズ』も、そして、本作も、描かれる根底のテーマは全く同じで、寸分違わない。現実は辛い…でも…"物語"は俺たちを救ってくれる…。大枠では、そんな"物語(妄想)崇拝"。しかし、より身も蓋もなく言ってしまえばこうだ。現実、クソ。引きこもり、ハレルヤ。まぁ、それでいて、筆者の独断による解釈では、遂に"その先"が描かれているようにも思うのだが、それは後述。

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 本作には、"身も蓋もないモチーフ"がたくさん登場する。主人公コーエンが住むのは、焼け落ちた廃教会。そこで彼は、"ゼロの定理"と格闘しつつ、雇い主である社長="神"がいつか"人生の意味"を教えてくれると信じ、ずっと彼からの電話="啓示"を待っている。磔のイエス・キリスト像は頭部がなく、その代わり、コーエンを監視するために会社が取り付けたカメラ="神の目"が。一歩教会の外に出ると、そこにはギリアム作品で毎度お馴染み、歩行者にピッタリ寄り添ってくる広告や、禁止事項の看板が壁のようにそびえる公園などなどが象徴する"消費社会"、あるいは"統制社会"が広がっている。要は、とうの昔に"神"を失った市井の人々は、"社会"から常に管理され、大量の消費を強要されている。にも関わらず、彼らは、何の疑問も感じない。操り人形と化した自分に気付いていない。そんな中、"神"="己の信念"="生きる意味"の存在を信じて待ち続ける男が一人……てなわけだ。

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 他にも、"ソフトウェア"がマジでソフト(液体)というギミックや、実はコーエンの心を"治療"するため派遣されたコールガールだったベインズリーがナースのコスプレで登場するとか、そういう露骨過ぎて若干ギャグになりつつあるモチーフたちも楽しい。とはいえ、だ。本作がギリアム作品である以上、我々は、楽しんでばかりもいられない。引きこもっていたコーエンが最終的には己を解放し、辛くとも外の世界へ旅立っていく。そんな"前向き"なオチを期待してはならない。『未来世紀ブラジル』のサム・ラウリーは、最終的に妄想の世界に囚われた。『12モンキーズ』のジェームズ・コールは、最終的にタイムループの虚構に囚われた。頑固一徹なギリアムおじさんは、本作でも全く同じ構図を採用する。すなわち、現実世界でベインズリーからの愛の告白と外の世界への旅立ちを拒絶したコーエンは、最終的にかつてベインズリーとバーチャル・セックスを楽しんだ仮想空間上の"夢のビーチ"に、一人孤独に閉じ籠ってしまう。

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 この一見"鬱"で"後ろ向き"なラストをどう解釈するか。もちろん、ギリアムおじさんのことを多少なりとも知っている我々は、結局"人生の目的"を見つけられず"現実"に敗北したコーエンは、"虚構"の内に引きこもり、そこで真の"救済"を得たのだと理解できる。これは、紛れもなく"ハッピーエンド"だ。『ブラジル』の結末を巡るギリアムと配給会社の闘争の末、劇場公開版は、サムと"夢の女"が無事に田舎まで逃げ延びたところで終わってしまい、実は逃避行はサムの妄想であることを示す肝心の描写がカットされた、という話は有名だ。配給のユニバーサルは、これを"ハッピーエンド・バージョン"と捉えていたようだが、現実に馴染めない生身のボンクラからすると、それは単なる"夢物語"であって、決して地に足のついた真っ当な"ハッピーエンド"ではない。かつて草薙という少佐が語っていたように、あるいは、Mr.Childrenが『hypnosis』という楽曲で歌っていたように、現実に馴染めないならいっそ浮き世を捨ててしまえ!という選択は、決して"バッド"じゃない。

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 ただし、本作に限っては、やや異なる解釈が許容され得るのではないかと筆者は考えている。まぁ、とりあえずギリアム作品を全部観てみないと確かなことは言えないのだが、少なくとも、彼の代表作たる『ブラジル』、『12モンキーズ』の二作のラストと本作のそれには、決定的な違いがある。そう、"夢の女"の不在だ。サムは、ジルと田舎に逃げ延びた。ジェームズの死を看取ったのは、キャサリンだった。しかし、本作ラストでビーチに佇むコーエンは、たった一人で夕日を見つめている。すると、かつてベインズリーとキャッキャ遊んだビーチボールが漂ってきて、それを手に取りポンポンもてあそぶコーエン。ボールをポイと手放した彼は、今度は夕日を"掴んで"、ポンポンもてあそび、ポイと手放す。それまで決して沈むことはなく、コーエンが「 "リアル "じゃない。」と評したその夕日は、あたかも掛け金を外されたがごとく、"現実の夕日"と同じように地平線の向こうに沈んでいくのであった…。

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 この描写は、二通りに解釈可能だと思う。一つは、コーエンは、やはりこれまでのギリアム作品の主人公同様、妄想世界を終(つい)の住みかと決めた。よって、"自分だけの現実"を構築するため、世界を"リアル"に書き換え始めたのだ、という解釈。Mr.Childrenの『蘇生』の逆バージョンだな。叶いもしない"現実"に敗北し、"引きこもりの神"となったコーエンは、今度はこの冴えない"夢"を"現実"みたいに塗り替えればいいさ、と考えているわけだ。でも、やっぱり筆者は違うと思う。ギリアム作品の主人公が最終的に至る桃源郷の最重要ファクターは、"夢の女"だ。だから、『ブラジル』のジルも、『12モンキーズ』のキャサリンも、そして、本作のベインズリーだって、みんなブロンドなのである。これは、アルフレッド・ヒッチコックが自身のフェチを如実に反映して、監督作のヒロインにことごとくブロンド美女を採用していたことへのオマージュであろう。『12モンキーズ』で露骨に引用された『めまい』が最も端的だが、ヒッチコック作品におけるブロンド美女は、往々にして"長年夢見続けてきた理想の女性"として登場する。

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 『ブラジル』、『12モンキーズ』とは異なり、本作ラストからは、そんな必須の要素が抜け落ちている。確かに、夕日が落ちてエンド・クレジットが流れ始めた後、ベインズリーの「ねぇ、コーエン…。」みたいな呼び掛けが聞こえる。では、ベインズリーは、やはり仮想空間内のコーエンのビーチに姿を現したのだろうか。しかし、その呼び掛けは、実際に目の前の相手の注意を引くためのそれとしては、何やらぼんやりしていて、しかも、何度も繰り返し過ぎだ。それに、これまでの作品では主人公と共にあったブロンド・ヒロインを本作に限って敢えて隠してしまう必要があるだろうか…? というわけで、筆者はこう考えている。すなわち、ボブ(ルーカス・ヘッジズ)からもらった"魂検索スーツ"を来てラストの仮想ビーチにやってきたコーエンは、ベインズリーとの思い出のビーチボールをもてあそぶ内に、辛くともやはり現実世界で彼女と添い遂げることを決意し、妄想との決別の意味を込めて夕日を地平に沈めた。その後聞こえるベインズリーの呼び掛けは、コーエンの記憶から発せられる彼自身の心の声であり、その声に従い、終幕後、彼は教会を飛び出していくのである。

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 そもそも、最終的に主人公が虚構の世界に立ち入る手段が、『ブラジル』、『12モンキーズ』と本作では、やや異なっているんだよな。『ブラジル』では、公権力による拷問、『12モンキーズ』では、未来のお偉方による時間転移。どちらも主人公を管理し追い詰める存在、突き詰めれば"現実"から強制的になされたものだ。しかし、本作でコーエンにバーチャル・スーツを与えたのは、現実世界での彼とベインズリーとの恋を応援していた少年ボブ。マネージメントの一人息子であるこの少年は、言ってみれば"神の子イエス・キリスト"なのであって、コーエンに救いをもたらす存在であるべきキャラクターだ。まぁ、ギリアム文脈を鑑みれば、妄想世界に逃げ込んでしまうことは"救い"なんだけど、そこにはやっぱり、敵の攻撃の果てにその攻撃を逆に利用して自分だけの世界に逃げる、という構図があったように思う。wikiによれば、ギリアムは『ブラジル』を含む初期三作のテーマを"ぶざまなほど統制された人間社会の狂気と、手段を選ばずそこから逃げ出したいという欲求"と語っているそうだが、やはり敵のやり口さえ利用して逃げ切るからこそ"手段を選ばず"なんだと思うんだよな。

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 てなわけで、一見これまでのテーマを完璧に踏襲し、「ギリアムおじさん、いつまでもトガってんなー。」と我々に感じさせる本作『ゼロの未来』。しかし、その一方で、ひょっとしたらこれまでとは違って、いや…それでも"新しい何か"に出会える可能性はあるんじゃないか?という希望を描いているとも夢想できる。あ、でも今思えば、『12モンキーズ』のラスト・カットも、円環の理からの離脱を暗に示唆しているとも取れそうだったな。そういう意味じゃあ、いつまでたってもやっぱりブレずに走り続けるギリアムおじさんは、本当にスゴいと思う。

点数:80/100点
 個人的な話なんだけれど、筆者もかつて"叶うなら、このまま夢のまんま"でいたい、とか、"もう現実から見捨てられても構わないさ"などと、ニヒル風を吹かせていた時期がある。その後、むしろ益々"社会"が嫌いになって今に至るのだが、なんだかんだその間に"守るもの"ができたりなんかもした。まぁ、隣でスヤスヤと寝息を立てている彼女が筆者にとっての"夢の女"かと問われれば、中々答えに窮するところではある。それでも、やっぱり"その先"へ手を伸ばし続ければ、悪くないことも起きるもんだ、なんて感じる瞬間が無いわけでもない。そんな、なんだかあやふやで痛々しく、ボンクラで中二病的な私情の吐露が、今のところ筆者がなんとか導いた"ゼロの定理"の解法である。

(鑑賞日[初]:2018.7.12)

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Mr.Alan Smithee
Posted byMr.Alan Smithee

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2023/03/06 (Mon) 12:25 | EDIT | REPLY |   

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