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キャッチコピー
・英語版:unknown
・日本語版:ボクは未来に出会った。

 負けるな、第一子。

三文あらすじ:とある都会の片隅の、小さな庭に小さな木の生えた小さな家で暮らす甘えん坊の"くんちゃん"(声:上白石萌歌)の元に、ある日、生まれたばかりの妹がやってくる。両親の愛情を奪われ、初めての経験の連続に戸惑うくんちゃん。そんなとき、くんちゃんは庭で自分のことを"お兄ちゃん"と呼ぶ不思議な少女"ミライちゃん"(声:黒木華)と出会い・・・


~*~*~*~


 『デジモン』や『ONE PIECE』の劇場版を手掛けた後、『時をかける少女』、『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』とコンスタントに良作、傑作を生み出し続ける男、細田守。かつて言われていた"ポスト宮崎駿"という形容が正しいかは分からないが、少なくとも今や日本を代表するアニメ・クリエーターの一人であることは、間違いないだろう。そんな細田氏の最新作『未来のミライ』を公開日から一日遅れで鑑賞してきたので、感想を書く。

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 まず驚かされたのは、本作がタイムトラベルの話ではなかったという点。4歳の主人公くんちゃんの妹である新生児ミライちゃんが中学生の姿で現れるというから、そりぁ、てっきり『時かけ』以来のタイムトラベルものなんだと思っちゃう。でも、実際には、本作で繰り広げられるくんちゃんの冒険は、全て彼の頭の中だけで起きている"妄想"である。妹の誕生に伴い両親からの愛を奪われたくんちゃんは、ミライちゃんへの嫉妬と兄としての自覚との間で悩み、追い込まれ、ことあるごとに"脳内アドベンチャー"の世界にさ迷い込む。

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 これは中々に難解な事態だ。確かに、例えばジブリ作品なんかで言うと『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』のような"一夏の冒険もの"は、結局のところ、全部主人公の妄想と考えても筋は通る。少年少女は、近所の川原とか、遠くのおばあちゃんの家とか、あるいは、自宅で色々と考えて、いつの間にやら少しずつ大人になっていく。そういった彼ら彼女らの成長過程を"トトロ"とか、"カオナシ"みたいな架空のギミックでデフォルメして見せてくれるのが、我々に馴染みある通常の"ジュブナイル・ファンタジー"である。しかし、本作のデフォルメ具合は、そんな通常作品よりも数段階ほど弱い。あ、これはこのくんちゃんという男の子の単なる妄想です、って、本作はあっけらかんとバラしてしまう。

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 このトリッキーな仕掛けに面食らった観客は多かろう。筆者も、まずくんちゃんが自宅の"中庭"で擬人化された飼い犬のゆっこ(声:吉原光夫)とじゃれ合うシーンで「え…?!」と驚き、その後、再び"中庭"で"未来のミライちゃん"が登場した際、やっと本作がタイムトラベルものではないという現実を理解することができた。まぁ、だからこそ英語版タイトルが『MIRAI From The Future』じゃなくてシンプルに『MIRAI』なんだよな。未来から大人になった妹がやってくるなどという世の理を越えたファンタジーではなく、4歳の男の子が自らの内なる世界で兄になる覚悟、すなわち、妹=ミライと向き合う覚悟を決めるまでのお話なんだ、きっと。

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 そんなギミックを理解した上で本作を観ると、舞台設定の美しさにまずはど肝を抜かれる。本作の舞台とはつまり、くんちゃんの自宅である。開幕早々、カメラが上空からぐーっと寄っていくと、周囲の家々より明らかに坪面積が狭く縦に細長い土地が一つ。その土地の奥側にポツネンと建つ小さな家に、生まれたばかりのくんちゃんがやってくる。それから4年。再び同じカメラ移動により我々が目撃するのは、設計士であるお父さん(声:星野源)によってオシャレ魔改造され、今や細長い土地の全てを多い尽くす家屋の姿。家の増築で時間経過を示すというのも正しい表現だが、最も素晴らしいのは、家の中に庭があるという奇抜な構造である。

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 これはつまり、先述した本作のギミック…というか、主人公たるくんちゃん自身を象徴した構造なんじゃないだろうか。普通、庭という"外界"は、家屋の外にある。くんちゃん宅の周囲の家々も全部そうだ。これは、"自分"と"外界"との間に明確な線引きを設けた"大人"のメタファーなんだと思う。…これだけだと妄想っぽいけど、まぁ続けさせてくれ。逆に言うと、成長するにつれ大人が自らの外に追いやってしまう"外界"を自身と不可分のものとして内包しているくんちゃんの家は、まだ無限の想像力を失っていないくんちゃん、更には、彼を始めとするあまねく4、5歳児のメタファーなのである。

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 俺たちだって、小さな頃は、プラスチックの塊であるはずのゴジラが火をふく瞬間を何度も目撃した。車や飛行機で何時間もかけずとも、ちょっと目を閉じれば、公園だって、遊園地だって、未知の惑星や遥か彼方の未来だって、すぐ目の前にあった。でも、大人になるにつれ、徐々に"現実"と"妄想"を区別できるようになるんだ。いや…「できるようになる」っていうか、そうしないと生きにくいんだな。一方のくんちゃんら4、5歳児たちは、まだ"現実"と"妄想"を不可分として認識する"能力"を失ってはいない。松任谷由実風に言えば、彼らにはまだ"神様"がいる。そんな彼らの象徴が、"外界"をも内包したくんちゃんの自宅であり、だからこそ本作で彼が体験する"ファンタジー"は、すべからく"中庭"から始まるのである。

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 そんなくんちゃんの"内なる帝国"は、ミライちゃんという"侵略者"によって脅かされる。ミライちゃんがやってくる直前、くんちゃんは、"中庭"にふるを見て「不思議…。」と呟くが、これは、"外界"をも含めて全てが自身の内部で制御・完結できていた彼にとって、生まれて初めての"外の世界との接触"だからであろう。だからこそ、直後やってきた新生児のミライちゃんを見たとき、くんちゃんは再び同じ台詞を口にするのである。さぁ、"くんちゃん帝国"の大平は終焉の淵にある。およそあらゆる第一子がかつて経験し、苦しみ、その後の人格形成に多大なる影響を及ぼす"第二子出現"という大事件に、くんちゃんは如何にして立ち向かうのか。

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 答えは、もちろん"妄想"である。未来のミライちゃんやゆっこと共に、彼は天も次元も突破して、めくるめく冒険を繰り広げる。ここで我々が再度面食らうのは、くんちゃんの冒険が、彼の"妄想"にしてはスゴ過ぎるんじゃないかい?という点。特に引っかかるのは、ひいじぃちゃん(声:福山雅治)とのエピソード。この時点でのくんちゃんは、ひいじぃちゃんが戦後オートバイ関係の職に就いていたという事実を知らないはずなのに、きっちりその事実を前提とした妄想世界を構築している。この点には、難解を通り越してむしろ杜撰さすら感じる観客もいるだろうな。しかし、筆者は、こう考える。

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 つまり、本作が大前提として主張しているのは、ガキの"頭"ナメんなよ!ってことなんじゃないかしら。そんじょそこらのSF作家なんて目じゃないくらいの想像力もさることながら、きっとくんちゃんは、"ひいじぃちゃんの人生"を覚えていたんだよ。でも… くんちゃんがお母さん(声:麻生久美子)からそのエピソードを聞いたのは、ひいじぃちゃんの妄想の後じゃないか…! そう、そこがポイントだ。大人は忘れているのさ。かつて、もしかしたらくんちゃんがまだ言葉も喋れない頃、アルバムなんかを見ながら「これがひいじぃちゃんですよー。オートバイが好きだったんですよー。」みたいな話をしたことを。逆に、子供の認識力や記憶力は、我々大人の予想を遥かに凌ぐ。本編前にアタッチされた"子供絵画コンクール"みたいな宣伝に審査員の細田氏が出てきて、「子供が描いた絵っていうのは、すごく実は意外と雄弁だ。」みたいなことを言うが、それはまさに、くんちゃんの"妄想"があまりにも雄弁なことの理屈になっているのである。

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 ここで、我々"映画好き"という人種は、大いに感動し、感銘を受け、感服するべきであろう。唐突に愛を奪われるという辛い"現実"と折り合いを付けるため"妄想"を"利用"したくんちゃんの手法は、我々ボンクラが日々映画という媒体を使ってやっていることだ。でも、俺たちだって、昔はくんちゃんみたいに"道具"を使わずにやれてたんだよな。いつからか"現実"と"妄想"を切り分けてしまった我々は、今では1,800円もの対価と引き換えにして初めて"妄想"の力を享受することができる。幼い頃は、それをくんちゃんみたいにいつでも自由自在にやれていたはずなんだ。それが"大人"になるってことだと? バカ言っちゃいけない。むしろ、退化だよ。"物語の力"を忘れ、"現実"と戦うための唯一の"武器"を手放しちまった。世知辛いだなんだと"現実"のせいにする暇があるなら、かつてその手にあった"武器"を思い出せ。そういった意味でも、子供ってのは我々の想像を越えて偉大な存在だ。

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 あと、そんな"子供ナメんな!"というコンセプトは、キャスティングにも表れている気がする。劇場での鑑賞時、筆者は、くんちゃんのヴォイス・キャストを担当する上白石萌歌さんの声が、何というか、ややミスマッチに感じた。これは決して筆者の独断ではなくて、一緒に観た筆者の同居人も、鑑賞後に「なんかくんちゃんの声、変。」と言ったんだ。その後アレコレ考えてみて、違和感の原因は、きっと"大人っぽさ"なんだと思い至った。くんちゃんの声や話し方は、彼の実年齢や年相応の立ち居振舞いからすると、ちょっと大人びているように感じられる。ハキハキしてんだよな。言葉もスルスル出てくるし。"おしゃべり"は、その話し手の認識や思考を表象する。であれば、上白石さんのキャスティングや演技指導には、子供は我々の想像よりも色々考えてんだぜ!という設定が反映されているのではないだろうか。

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 それと、本作に対して、一部では"親が酷過ぎる"なんて批判が巻き起こっているみたい。筆者が目にしたのはIGNというエンタメ情報サイトの本作評だが、そこでは、くんちゃんの両親は、およそくんちゃんの"自尊感情"をすり減らすだけのとんでもない親だ!と述べられていた。そうかな? 筆者はそうは思わなかったが。確かに、ミライちゃんにかかりきりの親を見て、くんちゃんはどんどん追い込まれていく。でも、これは第一子に課された避けがたい宿命なんだよ。だからこそ、筆者を含めたあらゆる第一子は、その後の人生を"愛を探すこと"に費やす。往々にして第一子がロマンチストなのは、そのためである。

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 くんちゃんの両親は、第一子を軽んじてこの宿命を不必要に加速させるような酷い親ではない。ちゃんと愛しているじゃあないか。くんちゃんが自転車に乗れたとき、人目もはばからず歓喜するお父さん、寝息をたてるくんちゃんに「くんちゃんは、私の宝。」と言って口づけるお母さん。筆者自身の親も、本当に兄弟を平等に取り扱って育てた"優秀な親"だと思うが(だからこそ、筆者はいまだに弟とは"親友"として付き合っている。)、それでも、筆者は、常に愛の喪失に怯える過度の恋愛体質に育ってしまった。第一子が抱く"喪失感"は、多かれ少なかれ絶対に避けられない。だから、十分に優秀だよ。くんちゃんの両親は。

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 確かに、ミライちゃんに手をあげようとするくんちゃんをお母さんが叱り付けるシーン。ここは決して誉められたものではない。でもさ、まぁIGNの『おおかみこどもの雨と雪』評を筆者は知らないんだけど、同作公開後には、「花が "出来た母親 "過ぎる!」と息巻いた観客がたくさんいたじゃあないか。その人たちは、きっと溜飲を下げただろう(いや、下げろよ。)。子育ての苦労から思わずやってしまう失態を、本作はきちんと描いているわけだ。IGNがやり玉に挙げていた、自転車練習中のくんちゃんをお父さんがほっぽり出すシーン。ここで「あのお父さんは酷い!」と責めるのはズルいよ。親切にも教師役を買って出たあの子供たちをはねのけたなら、きっとあなたたちは「そら!現代の過保護な親だ!」と噛み付いたでしょうに。

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 まぁ、せめて遠くで見守ってあげなきゃ…というのはわからないでもないけれど、それもやっぱりミライちゃんが泣き叫んでいるあの状況じゃあ無理じゃないかな。くんちゃんの両親は、ベストを尽くしている。だから、くんちゃんが対峙すべき"敵"は、両親ではない。これは、くんちゃんという第一子が、己が持てる最高最強の"武器"で、嫉妬心という己の中に潜む醜い"怪物"と戦い、そして、"本物の兄"になる、という物語だ。だから本作には、両親が自らのニグレクトを悔いたり、くんちゃんに謝罪したり、両者が和解したりするシーンが無い。この描写があれば、きっとIGNの評論家も納得していただろう。でも、厳密に言うなら、やはり本作は"親子"の話ではありませんよってに。"兄妹"の話であり、もっと言うなら、くんちゃんという"第一子(おとこ)"がたった一人で立ち向かうべき戦いの話ですよってに。

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 というわけで、第一報として遅くなってしまった割には、まだまだ書き漏らしがありそうだが、個人的には、やっぱり細田氏はスゲェや!と思える傑作であった。ましてや、いつも以上に"俺たちの物語"だったわけだから、感動もひとしお。最初に生まれたばっかりに、数年間は愛情を当たり前のものとして享受し、しかし、ある日突然現れた"ライバル"の手で無慈悲に奪い取られたあなた。だったら何とか試行錯誤して奪い返しゃあいいのに、それまでは何もしなくとも愛情がそこにあったため、取り敢えず拗ねてみせるしかなかったあなた。そして、"大人"になった今でも、何か困難にぶち当たると、建設的な解決策を模索する第二子とは違ってただただ拗ね、挙げ句問題から逃避してしまうあなた。そんな第一子たちよ、負けるな! 俺たちには"映画"がある!

点数:82/100点
 他にも、やっぱり細田作品に通低する"家族は家族に生まれるのではない。家族になるのだ。"というテーマは、本作でも研ぎ澄まされているとか、家族も含めた"仲間との絆"を木で表現するというやり方は、細田氏の長編デビュー作『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』にも出てきたなぁとか、クレジットの横に作中シーンの画像を表示するといういつもはエンドロールで出てくる演出が本作ではオープニングで使われているのは、きっとくんちゃんが家族の歴史を逆から遡って知っていくという展開に呼応しているのだろうとか、細かなところで言いたいことは山とある。でも、やっぱり一番思うのは、かつて"ライバル"だった憎き敵(かたき)が、実は俺たちにとって、最高の"親友"なんだってこと。きっと筆者だって、大袈裟でなくくんちゃんのような"大冒険"の末、我が弟を弟として受け入れたはずなんだ。"大人"になった今ではそんな大冒険も忘却の彼方だが、もはや弟の兄でない自分など想像できない以上、くんちゃんのように己に打ち克ったその時こそが、自分が自分になった瞬間、とも言える。だから、もし、大人になって第二子と疎遠になってしまったという第一子がいたら、本作を観てほしい。確かに、今さら向き合うのは気恥ずかしく、辛いと思うよ。でも、"武器"はあるから。ただ、思い出せばいい。

※後日追記
 本作は、"フード理論"という観点からも非常に正しい作品だと思う。"フード理論"とは、お菓子研究家である福田里香先生が映画の中の食べ物に関して提唱する理論であり、①善人は、フードをおいしそうに食べる、②正体不明者は、フードを食べない、③悪人は、フードを粗末に扱うの三原則を柱とする。まぁ、本作に限っては明確な"善人"とか"正体不明者"とか"悪人"はいないのだが、先生の著書『ゴロツキはいつも食卓を襲う』の第二章に記された「仲間は同じ釜の飯を食う」は、モロに本作のラストシーンに当てはまる。すなわち、一本のバナナを分け合うくんちゃんとミライちゃんのシーンだ。序盤では、おっとっと的なクッキーをミライちゃんの顔に乗っけてイタズラしていたくんちゃん。実は、ここも重要。"フード理論"によれば、食べ物を粗末にする者は、基本的に"信頼できぬ者"である。しかし、大冒険を通してきちんと兄としての責任感を自覚したくんちゃんは、見事にミライちゃんとも和解し、バナナを分け合った。同著の第四章のタイトルは「少年がふたり並んで、食べ物を分け合ったら、それは親友の証。ポップコーンキャッチをしていたら、なおよし」というものだが、ここはまさに、くんちゃんからのバナナ・パスを受け取ったミライちゃんがしっかりそれを食べることで、"同じバナの飯を食った仲間"としての彼らの"信頼関係"が描かれているのである。

(鑑賞日[初]:2018.7.21)
(劇場:MOVIXあまがさき)

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Posted byMr.Alan Smithee

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