09
2012

[No.70] 大日本人 <32点>

CATEGORYコメディ
大日本人



キャッチコピー:『松本人志第一回監督作品』

 ごっつええ感じなヒーロー、現る。

三文あらすじ:高圧電流を浴びることで巨大化し、日本国内に時折出現する巨大生物”獣(じゅう)”を代々退治してきたヒーロー”大日本人”。軍備の充実に伴いその必要性に疑問の声も挙がる現代、6代目にあたる大佐藤大(だいさとうまさる)(松本人志)は、世間の非難に晒されながらも日々”獣”と戦う質素な暮らしを送っていた。そんなある日、大佐藤がテレビ番組の密着取材を受ける中、日本国外から圧倒的パワーを持った正体不明の赤い”獣”が出現する・・・


~*~*~*~

 
 大変月並みな感想だが、本作は映画ではなく”コント”である。”映画”というのは、基本的には”1つの「ストーリー」を描く映像作品”であって、特に本作のような架空の物語の場合”世界観の構築”が出発点にして最大のポイントとなる。

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 確かに”世界観の設定と導入”という点において、本作は素晴らしい出来と言っていいだろう。世襲制のヒーロー”大日本人”。かつての栄光は消え去り、今では不必要に街を壊す”厄介者”との視線を世間から浴びせられている。日本におけるロングセラーヒーロー『ウルトラマン』が、実は怪獣を倒すためにめちゃめちゃ街を破壊している、というマセた小学生などが言いそうなアイデアを膨らませたこの設定は、斬新とは言えなくても中々おもしろい。離婚問題・介護問題など極めてパーソナルな悩みを抱える等身大のヒーロー像も、近年では特に『ウォッチメン』で見られたような“人間臭いヒーロー”という流行りのテーマを含んでいる。

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 さらに、そんな本作の”世界観”の中に観客を誘う作品前半~中盤の見せ方も割とちゃんとしている。大佐藤が変身のため変電所へ向かう道中、道一杯に設置された横断幕や看板には、彼への否定的なメッセージ。大佐藤が住む家も一般に抱かれる”ヒーロー”のイメージからはほど遠いボロボロの木造住宅であり、そこにも付近住民からの否定的な落書きがなされている。この辺りの演出・表現によって”大日本人というヒーローが当たり前に存在する日本”という本作の世界観が、非常に上手く構築されていると言えるだろう。ストーリーを見せていく上で”大佐藤へのテレビ取材”という方式を採用したことも、観客がすんなり本作の”世界観”の中へ入っていく上で中々効果的だ。

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 しかし、本作は、その”世界観”にしっかり浸った観客をすぐに突き放してしまう。筆者が本作を”映画ではなくコント”だと感じるのは、まさにこの点。”映画”が1つの「ストーリー」を1作品の中で見せきるものである以上、製作者は自らが構築した”世界観”に終始乗っかる必要がある。特に、現実にはあり得ないことを描く広い意味での”SF作品”においては、”世界観”をどれだけ説得的に観客に信じ込ませるか、という点こそが最も重要だ。

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 SF作品を楽しみにする観客は、その世界観に2時間どっぷり浸かりたいから劇場に足を運ぶのだし、製作者には当然そのような観客の期待に応える義務がある。つまり、製作者は一度観客を騙したら、映画が終わるまでしっかりそのウソをつきとおさなければならない。タトゥイーンにおいて「アンソニー・ダニエルズが蒸し焼きになっちゃうから、早く出発しようよ。」などとオビ・ワンに語りかけるルーク・スカイウォーカーは誰も見たくないし、そんなことをして『スターウォーズ』が”映画”であるということを観客に気付かせてしまうのは、絶対の禁じ手である。

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 ところが、本作では”映画”において禁じ手であるメタフィクション的描写がいくつも登場する。例えば、世界観への導入という点では効果的だった”テレビ取材”というスタンス。大佐藤の日常は、ずっと取材クルーの撮影した映像とインタビュアーの質問に対する応答という形で描かれていくのだが、大日本人と”獣”の決戦シーンになった途端”神の視点”に切り替わる。これは上手くない。せめて”決戦シーンは放映されたテレビ番組の映像だ”と分かるようなフォローを入れるなどしないと、観客は”映画”ということに気付いてしまう。

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 また”獣”の顔面の造形に、観客が日々テレビで良く見る人気芸人人気俳優をそのまま採用した、というのも非常にマズい。変身の際にはまず巨大なパンツの中に大佐藤が入ってから電流を流す、という演出や、スポンサーの広告をその体にプリントしているといった、松本人志演じる大日本人の”ヒーロー像”は非常にリアルで説得力があるのに、板尾創路の顔で彼と同じ声と喋り方の”獣”が出現した瞬間、観客は”あぁ、これは映画なんだな”と感じてしまう。

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 そして、最もいけないのは、やはりラストの演出。ミニチュアセットの街、着ぐるみの”獣”とヒーローの登場で、もはや本作は”映画”としての最後の一線すら放棄してしまった。確かに、おもしろいかと聞かれればおもしろいポイントも多々あり、特にこのシークエンスでスーパージャスティスの父が「是非!」と言ったとき思わず笑ってしまったことは認めよう。しかし、いくらコメディ作品であったとしても”映画”である以上、メタな視点からの”世界観の放棄”は絶対にしてはならないのである。

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 一方、”コント”では”映画”における以上のようなルールはない。コントにおいて主眼とされるのは、あくまでも”笑い”であって、ストーリーや世界観は”笑いを生むための装置ないしは仕掛け”に過ぎないと言える。観客は、コントを最初から”コントとして”見るのだから、役を演じている人物が芸人ということも知っているし、それが観客を笑わすための”お芝居”であることを前提として視聴している。したがって、キャシー塚本が、料理番組中にアシスタントである今田耕司のプライベートなスキャンダルに触れたとしても、観客が冷めてしまうことはない。テレビ視聴者は、今田耕司が”コントのためにキャシーのアシスタントを演じている”という前提で見ているからだ。むしろコントにおいては、そのようなメタフィションな展開が”笑い”を生むことが多いだろう。

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 松本人志は、そんな”コント”作りのプロである。確かに、コントにおいても”世界観”は重要で、斬新で魅力的な”世界観”のコントはおもしろい。しかし、コントにおける世界観は、例えば、UFOという近未来的・非現実的な舞台に対して、「劇的ビフォアーアフター」のような極めて俗っぽい感じでのリフォームが笑いを生む、というように、やはり”笑いのための仕掛け”でしかない。仮に同じ世界観に立っていたとしても、”コント”と”映画”では、必要とされるストーリーテリングや見せ方が全く異なってくる。

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 言いたいこともまとまらぬ雑多な文章になってしまったが、つまりは”映画”における世界観には具体性・一貫性が求められるのに対して、”コント”における世界観は抽象的・象徴的なもので足りるということが言いたかった。

 そうすると結局、希代のコント師、松本人志の第1回作品が”映画として駄作”と言わざるを得ないものになってしまったのは、彼があまりにも素晴らしいコント師であったからとも言えるではないだろうか。

点数:32/100点
 以上のように、本作は映画としてはかなりの駄作である。もっとも、その奇抜な世界観は非常に魅力に溢れており、松本人志の今後の作品に期待が高まる。まぁ、次回書くように彼の第2回作品『しんぼる』も残念ながら駄作と言わざるを得ないし、第3回作品『さや侍』もあまり高い評判を聞かない。しかし、彼の作り出す世界観にしっかりした”映画の見せ方”が融合すれば、きっと傑作が誕生するはずなので、筆者としては3作品の低評価にめげず、4作目も作って欲しいと思う。是非!

(鑑賞日[初]:2012.3.25)






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Tag:邦画 男には自分の世界がある 駄作 衝撃のラスト!

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