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・英語版:unknown
・日本語版:時は来た。

 ボンドにありがとう。
 クレイグにさようなら。
 そして、全ての007に……

三文あらすじ:ジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)は、"00(ダブルオー)"エージェントを退きジャマイカで静かに暮らしていた。しかし、CIAの旧友フェリックス・ライター(ジェフリー・ライト)が助けを求めてきたことで平穏な生活は突如終わってしまう。誘拐された科学者を救出するという任務は、想像以上に危険なものとなり、やがて、凶悪な最新の技術を備えた黒幕を追うことになる・・・


~*~*~*~


 コロナ禍により度重なる延期を食らいつつも、"死んでる暇なんかねぇ!"とばかりになんとか昨年10月(英国だと9月30日)に公開された007第25作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』。007についての説明は今さら不要かと思うが、元はイアン・フレミングが1953年に発表した小説で、それが1962年に記念すべき映画化第1作『ドクター・ノオ』として公開され、大ヒット。今では、まぁ控えめに言ってスバイ・アクションの圧倒的バイブル、それどころかより広く、娯楽映画としてポップ・カルチャーにあまりにも多大な影響を与えた金字塔。そんな立ち位置の、映画史、いやさ人類史に残る決定的アイコンである。基本的な筋書きは、それこそみなさんご存じのとおりの様式美。英国諜報機関MI6において"殺しのライセンス"を与えられた凄腕スパイ集団"00部門"、その中でも特に有能な男、"007"ことジェームズ・ボンドが、秘密諜報員とは名ばかりの堂々たる破壊工作を繰り広げ、道中で手当たり次第に美女を抱きながら、七転八倒の末に巨悪を打倒する。

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 もっとも、ひとくくりに"ボンド映画"と言っても実は作品ごとにテイストはやや違っていて、特にボンドを演じる俳優によって差異、というか"波"がある。リメイクではなく連続した同一フランチャイズ内で主人公を演じる俳優が代替わりしていく、というのが007シリーズの大きな発明の一つだったわけだが、その中でも例えば初代ショーン・コネリーや5代目ピアース・ブロスナンが演じたボンドは、シリアスとユーモアのバランスが割と等分な、いわば"スタンダード・ボンド"であった。一方、3代目ロジャー・ムーアはユーモア極振りで、逆に4代目ティモシー・ダルトンはシリアス寄り、みたいな。そのときどきの時流を考慮して、演じる俳優ごとのカラーというのがある。まぁ、基本的にはユーモアに振ったら次はシリアスに寄せる、という感じでしょうか(もちろん、同じムーア作品の中でも荒唐無稽に極振りした『ムーンレイカー』の次が比較的原点回帰した『ユア・アイズ・オンリー』だ、みたいな波はある。)。

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 では、本作を以て卒業する現行最新のクレイグ・ボンドはどうだったかというと、これはもう歴代でも類を見ないほどシリアス極振り。彼は、とにかく笑わない。ニッコリすることはあっても、声を出して爽快に笑うのは『カジノ・ロワイヤル』での金玉拷問のときのみである。同作の公開が2006年であることを考えると、これはやはり当時の時流がそうさせた部分もあるのだろう。当時の娯楽大作シーンというのは、2005年に『バットマン・ビギンズ』、そして2008年には『ダークナイト』が来るわけで、世はまさにシリアスをベースとした再解釈・相対化時代。そもそも長年の権利闘争の末、満を持してカノンで映画化できる運びとなった"007誕生譚"たる『カジロワ』をお話としてチョイスしているのだから、これはもう製作サイドとしても「007を今風に再解釈してリスタートするぞぉ!」という気概がマンマンだったことは、想像に難くない。

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 で、ブロンドで碧眼でムッツリというダニエル・クレイグの外見・立ち居振る舞いは、このコンセプトにちきんとハマったのだと思う。たしかに、改めてクレイグ以前の歴代ボンドたちと比較してみるとやっぱり硬派すぎて辛気くさいし、なによりクレイグの顔がいかにも往年のボンド悪役(ロシア側の武闘派No.2)って感じが、少なくとも『カジロワ』『慰めの報酬』では強いのだが、それでも彼のキビキビした動きや立ち姿はたしかに"男が憧れるカッコいい漢"を体現できているのだと思う。やっぱ顔面ではなくボディなんですよね、クレイグ・ボンドの魅力は。実際、6代目がクレイグと発表された直後から全世界で烈火のごとく巻き起こった非難の嵐を鎮めたのは、クレイグがムキムキの水着姿でビーチに佇む『カジロワ』の撮影現場でのスパイ・フォトだったらしい。この写真一枚で、世間は「ウホッ! クレイグ・ボンド、いけるやん!」と手のひらを返したわけだ。それゆえ、クレイグ・ボンドは、美女よりもライターとかシルヴァとかQとかとのホモホモしい絡みが多い……のでしょうか?

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 ちなみに、筆者の"マイ・ボンド・ヒストリー"についてだが、世代としては"ブロスナン・ボンド直撃世代"にあたる。64(ロクヨン)の『ゴールデン・アイ』も、実弟ととにかくやり込んだもんです。ただまぁ、『カジロワ』公開時も大学生とかなので、クレイグ・ボンドも全作リアルタイムで追ってきた。そんな感じ。ともかく、そんなクレイグ・ボンドの歴史を振り返ってみると、やっぱり本当に"異例ずくめ"と言う他ない。まずデビュー作『カジノ・ロワイヤル』。ブロスナンのデビュー作にして007作品としては4度目の再始動となる『ゴールデン・アイ』で監督を務めたマーティン・キャンベルが再び再始動のメガホンを取り、これまたブロスナンの『ワールド・イズ・ノット・イナフ』と『ダイ・アナザー・デイ』で脚本を担当したニール・パーヴィスがカムバックした同作は、作品としては非常に良くできた一作であった。実際、世間的にも大ヒットし、クレイグをボンドとして認めさせることに成功している。ただ、お話としては先述のとおり007のエピソード0であり、生涯一回こっきりの超異例な一本である。

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 続く2作目『慰めの報酬』。これは『カジロワ』のラストからほぼシームレスに始まる直接の続編だったわけだが、基本的に1話完結型の007作品としては超異例。もちろん、『女王陛下の007』でボンドが結婚し、しかし妻を亡くしたという事実がその後の作品でも何回か言及されたり、『ユア・アイズ・オンリー』のアヴァンでは明らかにその前提でブロフェルド(らしき人物)への復讐などが描かれたことはあるが、とはいえ、これまであったのはあくまでそういうキャラクターとしての連続性であって、ストーリー自体が直接的に連続することはなかった。しかし、『慰め』モロに『カジロワ』の続編で、これは目新しい試みである。まぁ、結果的に、世間では絶不評でしたが…。全編まっ茶色で地味な画面、速い速いカット割りの中で繰り広げられる硬派で"リアル"なアクション。これじゃあ、ボーン・シリーズじゃないか…。そう、数多の007ファンが落胆した。

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 脚本家協会のストライキにより脚本未完成のまま撮影を進めなければならなかったというディスアドバンテージはあったものの、そもそもこれは、007作品がずっと晒されてきた"時代遅れとの戦い"に敗北した瞬間であったかもしれない。ボーン・シリーズだけでなく、作品間の連続性を意識した構成は、今考えればMCUの影響があったのかもしれませんね。とにかく、何かのフォロワーに成り下がるのなら、007など必要ない。すなわち、007シリーズはここに来て存続すら危ぶまれる絶対的窮地に立たされたわけだ。ここから5年もの準備期間を経て満を持して公開され、そして、見事にボンドの"復活"を成し遂げてみせたのが、そう。2012年の『スカイフォール』である。監督は、『慰め』のマーク・フォスター同様、"アクションらしからぬ人選"であるサム・メンデス。アカデミー作品賞を受賞した監督デビュー作『アメリカン・ビューティー』からも明らかなとおり、極めてグラフィカルな画面構成の中でスゴく象徴的なストーリーテリングを行う人物。

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 そんな彼のやり口が刺さった。宇多丸師匠が"究極のボンド論について描いた作品"と表現するとおり、女王陛下の代理としてのMを挟んだ善悪、または忠義と復讐の対比や新Qの登場により際立つ新旧の対比、そして、クライマックスの教会が物語る罪と罰と救済と復活のストーリー。その旅の果て、全てを失ったとき、それでも007を007足らしめる"何か"はあるか?というもはや哲学とも言うべき象徴的領域へと突入していく。その"何か"ってのはもちろん"エレガンス"なわけだけれど、これがサム・メンデスの資質とバッチリ合致。上海、香港、ロンドン、スカイフォール。極めて緻密に構成された優美な舞台で、惚れ惚れするほど力強く、美しく、優雅に立ち回るボンド。ジェイソン・ボーンにも、イーサン・ハントにもこんなことはできない。全てのボンド映画の始まりであり、同時に行き着く先。これが007。これがジェームズ・ボンドだ。ただ、ボンド映画でボンド論を展開するなんてのは当然一回こっきりのやり口なわけだから、やっぱり異例なんですよね。

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 そして、続く4作目『スペクター』。え? 次どーすんの? 前作であんなソリッドなボンド論を展開しちゃったら、次どんな話にすんの? と、宇多丸師匠を始め多くのボンド・ファンがハラハラしていたわけだが、前作はいわばクレイグ・ボンドの"本当の誕生譚"だったわけだ。ならば、やることは1つしかない。やっとこさ生まれた新生ジェームズ・ボンドに相応しい、"最も007らしいお話"である。ならば、敵は1人しかいない。1963年の『ロシアより愛をこめて』から1981年の『ユア・アイズ・オンリー』に渡ってボンドに立ちはだかった往年の宿敵"スペクター"、そしてそのボス、ブロフェルドである。このコンセプトは非常に正しい。ところが、公開時の筆者は作品の出来に不満を持ち、特にクリストフ・ヴァルツを無駄使いするな!(=ブロフェルドというキャラクターがショボすぎやろ!)という観点から不評の感想を書いた。なんと愚かな。この場を借りて訂正させていただきたい。今回観直したら、『スペクター』めちゃくちゃおもしろかった

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 宇多丸師匠も同作におけるボンドとブロフェルドの対比構造を指して、「前作のマザコンの話がファザコンになっただけやん。」と苦言を呈していた。しかし、まずここがちょっと違うんだと筆者は思い直した。ブロフェルド=オーベルハウザーがファザコンをこじらせたキャラなのは間違いない。だが、一方のボンドについては、実は前作でMに対して見せたような葛藤を亡き父に対して露呈する、という描写はないのである(あったとしても「ふ〜む……。」と黄昏れる程度。)。つまり、やはりボンドは前作でその手のコンプレックスから解放され、既に確固たるアイデンティティーを確立しているということだ。それが証拠に、ブロフェルドが砂漠の基地でボンドを拷問するシーン。ここで初めてブロフェルドのファザコン的動機が本人の口から明かされ、ボンドは顔面にドリルを突き立てられる。注目したいのは、ドリルで刺されれば"自分が自分ではなくなる"とのブロフェルドの説明だ。親へのコンプをこじらせてボンドの自我を奪おうとする。ここからも、やっぱりブロフェルドという悪役があえて前作のシルヴァを踏襲していることが伺える。

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 しかし、重要なのは、おそらく作り手は、前作とあえて同じ構図にすることで"完成されたボンド"を示そうとしている、ということ。"完成されたボンド"、それはもちろん、絶対に揺るがない「俺、ジェームズ・ボンド!」という自我それ自体。ゆえに、ボンドは、ドリルを刺されても自らを失わない。「まずは小手調べた。次は外さねぇぜ。」なんてのはこの手の拷問シーンでお決まりの展開だが、筆者はいっそ、ワンショット目もミスってはいなかったのではないか、とすら思っている。さらに、この後。マドレーヌとともに脱出するボンドは、ザコ敵3体を各1発ずつの銃弾で見事に殺害する。筆者はこれが、完全なボンドによる完全勝利の描写に思える。いくらザコ敵とはいえ、ボンドがここまで鮮やかに、正確に敵を仕留めることは、かなり異例だ。そして、基地を脱出した瞬間、あたかも007・オン・ステージのラストを演出する花火のような大爆発。ここも初鑑賞時は"映画史上最大の爆発"って言われても、別に…。なんて筆者は思っていたのだが、『グレンラガン』で例えるなら「俺を…誰だと思っていやがるーーー!」(背後で火山ドーーーンッ!)みたいな、"アイデンティティー宣言演出"なんですよね。

※ドリル拷問のシーンについては、『ルパン三世 ルパンVS複製人間』マモーがルパンの深層心理を暴こうとする場面を思い出すとより分かりやすいかもしれない。あの場面におけるマモーは、ルパンを磔(はりつけ)にした上、妙ちくりんなマシーンで彼の脳内をビリビリとかき回す。その狙いは、人が誰しも深層心理に有する"願い"を露呈させることで、ルパン三世という"スーパーヒーロー"を一介の"人間"へ落としめようとするものだったわけだが、しかし、逆に一切の"願い"を持たないというルパンの"白痴、あるいは神の意識"に圧倒さてしまう。まぁ、マモーはルパン史上でも最強の敵なので、その後の物理的な頑張りで以て結果ルパンの"アイデンティティー"を一度は蹂躪することに成功する。それでも当該シーンにおいては、拷問によりルパンの"アイデンティティー"の破壊を目論むも、あまりにも強固なそれを前に失敗しているのである。あくまで個人的にではあるが、これは本作のドリル拷問シーンとかなり近しい場面だと思う。

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 前置きが長くなりましたが、そんなこんなでやっとこさ本作の話に入っていく。完成されたボンドの完全勝利を描いた『スペクター』で、ボンドは007から卒業した。晴れ晴れしく銃を捨て去り、マドレーヌ嬢と去っていくボンド。その先に果たして語るべきボンドの物語はあるのだろうか? 結果、その答えは、半分YES、半分NOと言ったところであった。"正しいボンド映画"というものがもしあるのなら、やはり前作がいったんの区切りであっただろう。しかし、考え方を変えれば、あるいは……。って感じ。つまり、筆者の理解による本作は、ほとんど正史からハズれた、事実上のスピンオフに近い位置付けの作品ということになる。もっと言うなら、"『女王陛下の007』のその先"を描いた番外編作品だ。これはどういうことかと言うと、まず『女王陛下の007』というのは、1969年公開のシリーズ6作目。それまで5作に渡って初代にして絶対的ジェームズ・ボンドとして君臨してきたショーン・コネリーから、モデル出身のジョージ・レーゼンビーへと"ボンドの代替わり"が行われた初めての作品である。

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 このとき、ジョージ・レーゼンビーは世間からの熱い非難に晒されたらしい。みんなハナからショーン・コネリーへの名残惜しさを抱えていたのに、そこにモデル出身で俳優としてはほぼ無名の新参者がやってきたのだから、まぁ気持ちは分かる。またレーゼンビーが、もちろんスタイルは抜群なんだけど、顔面が……少なくともコネリーと比較すると二枚も三枚も落ちる、"ボンドらしからぬ造作"なんですよね。しかも、製作者もその点に自覚的すぎるほど自覚的だったものだから、冒頭からすっごい観客に"言い訳"するんだ。アヴァン・タイトルの浜辺ですったもんだして女を助けるも、その女に逃げられてしまったボンドが、なんと"こっち"(=カメラであり、我々観客)の方を向いて「こんなこと、今までの作品ではなかったよな?」なんて言ってみたり。そこから突入するオープニング・タイトルも、これまでの過去作5作の映像がそのまま矢継ぎ早に映し出されたり。ボンドが自分のデスクで過去作の印象的なガジェットをわざとらしく見せびらかす、なんてシーンもありましたねぇ。

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 そうやって露骨に正統性を強調するもんだから、我々観客としては逆にコネリー・ボンドを意識してしまうわけだが、それに輪をかけてストーリーが全くボンドらしからぬ、というところが、さらにマズかった。つまり、『女王陛下の007』は、長年のボンド映画史上、唯一ボンドが結婚する話なのである。アヴァンの浜辺で助けた女性トレイシーと最終的に結婚式を挙げ、カランカランのハネムーン・カーで去っていくボンド。こんなのボンドじゃない!って当然誰もが思う。しかし、心配はいらない。ボンドは早々にまたスパイの道へと戻ってくる。でも……それがまた……ね。「世界は二人のものだ。」なんてイチャつきながら峠道を走るボンドとトレイシー。そこへ実は生きていたブロフェルドの車が迫り、追い越しざまに銃撃される。「ちっくしょー。生きてやがった。ブロフェルドめー! 追うぞ、トレイシー!」 しかし、いきり立つボンドが助手席に目をやると、哀れ、銃弾を眉間に受けたトレイシーは、既に帰らぬ人となっていた。

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 ボンドはトレイシーの亡骸を強く強く抱きしめ涙を流す。そこに警官が通りかかり、「大丈夫ですか?」 ボンドは、警官に目もくれず「大丈夫。大丈夫だ。」 物言わぬ最愛の妻をより一層強く抱きしめ……「大丈夫。世界は二人のものなんだ…。……終幕。ぇぇぇええええ??!!! と、当時多くの007ファンが度肝を抜かれたわけです。コネリーとの別れ、モデル俳優の登場、ボンドの結婚。そんな幾重ものハードルをなんとか越えてきた観客をついにどん底へと叩き落とす衝撃の"バッドエンド"。まぁ、ボンドが007を辞めずまたカムバックするという意味ではファンにとっての"ハッピーエンド"かもしれないが、それはそれで"007という円環"から決して逃れられぬ"ジェームズ・ボンドの煉獄"に他ならず、やはり少なくとも従来的なボンド的コンテキストにおいては、とても"ハッピーエンド"と呼べる代物ではなかったのである。

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 で、本作は、アヴァンから極めて露骨に『女王陛下の007』オマージュを提示してくるわけです。そもそも、ボンドが伴侶を見つけてMI6を辞職するという前作『スペクター』のラストが既に『女王陛下』っぽかったわけだが、本作のアヴァンは"その先"、つまり、峠道でブロフェルドに銃撃されることなく無事にハネムーン先へとたどり着いたボンドとマドレーヌのシーンからスタートする。ここで『女王陛下』好きな筆者などは、あぁ…なんて幸せな"if ストーリー"なんだ…と少し涙ぐんですらいるわけだが、ご丁寧に『女王陛下』でボンドとトレイシーの愛の日々を彩った007史上に残る名挿入歌『We Have All the Time in the World』の旋律がやんわりと流れるにつけ、あぁ!ホンマにそういうつもりなんや!と驚かされるのである。さらに、疑惑のマドレーヌとの逃避行の末、駅で彼女を見送り去るボンド、からのオープニング・タイトル。宇多丸師匠が「ボンド映画の魅力の90%はここにある。」と仰るオープニング・タイトルも、本作においては、実は明確に『女王陛下』オマージュだ。

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 『女王陛下』のオープニング・タイトルと言えば、先述のとおり、それまでの過去作5作の映像が次々に流れるという趣向だったわけだが、実は本作もある意味でそうなっているのである。まず、いきなり画面中央にポンっ!と現れる。からのポポポポポ…!と丸が増えていく。これは明らかに『ドクター・ノオ』のオープニング・タイトルそのままのデザイン。これだけなら、まぁ…007映画の始まりたる『ノオ』のオマージュか。今回はボンドがジャマイカに隠居してるという設定があったり、サフィンもどことなくドクター・ノオっぽい雰囲気あるしな。なるほど。という感じ。しかし、注目はその後、背景に銛を携えたスキューバ・ダイバーのシルエットが映るシーン。たしかに、新007がスキューバのイントラやってる、みたいな台詞が後々出てくるが、結果として実際に誰かがスキューバをやっているシーンは、本編にビタイチ出てこない。ここで思い出すべきは、もちろんシリーズ第4作『サンダーボール作戦』だ。

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 同作では、クライマックスでブロフェルド軍とボンド軍が全員スキューバのギアを装着して、海中で大決戦(というか、"海中運動会"というか……。)を繰り広げる。ゆえに、オープニング・タイトルは、スキューバ・スタイルの美女のシルエットが右往左往する、というものだった。モーリス・ビンダーが手がけた中でも傑作との呼び声高いこのタイトルは、作中の展開をしっかり示唆しており、筋が通っている。しかし、一方の本作において、オープニングのスキューバ・シルエットは、少なくとも直接的にはその後の本編展開を示唆しない。ならば、その意味は何かと言うと、やはり『サンダーボール』オマージュしかないと思うのである。そして、ここを取っ掛かりとしてさらに考えると、人物の体に蔦のような模様が浮き上がるデザイン。まぁ、よくよく見ると体内が透けているのかもしれないが、とにかく体表にデザインが投影されるという仕掛けは、まさに『ロシアより愛をこめて』『ゴールドフィンガー』のオープニング・タイトルと同一のギミックである。

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 ということは、きっと筆者が見逃しているだけで、第5作『007は二度死ぬ』のオマージュ・ギミックも、どこかに仕込まれていたのではないか。そして、もしそうだとすると、本作のオープニングはまさに『女王陛下』そのまま、コネリー・ボンドの5作をオマージュしていた、ということになるのである。あとは、例えばマドレーヌが働いている雪山の上の診療所とかも『女王陛下』オマージュですね。同作でボンドが潜入するブロフェルドの診療所も雪山の頂上にあった。敵の陰謀が遺伝子をトリガーとする細菌兵器によるものだ、という点も『女王陛下』ゆずりでしょう。さらに"その先"という意味では、ボンドの子供。結婚の"その先"は子供である(ことが多い)わけで。で、最後にはなんとボンドが死んでしまう、と。これは"その先"と言うより"その裏"だろうか。『女王陛下』ではトレイシーが死んでしまいボンドは再び007の円環に囚われるわけだが、ダニエル・クレイグの卒業作たる本作では逆にボンド自身が死亡することで、円環から完全に離脱する。

※公開から時が経ち、YouTubeで本作のオープニング・タイトルを観ることができるようになったので再度確認してみたが(観れるからと言って観てはいけないヤツかもしれないが……。)、どうにもイマイチ『二度死ぬ』のオマージュを見つけられない。同作のオープニング・タイトルと言えば、マグマと唐傘の骨組みのイメージだが、同様の意匠は無いように思う。強いて言うなら先述のダイバーのシルエットが出てくるシーンで、背景の地平線から昇ってくる大きな赤丸が、あたかも日の丸のようで、それを以て『二度死ぬ』の舞台であるジャパンを表現しているのか……。ちょっと無理矢理かな……。ちなみに、『女王陛下』のオープニング・タイトル独自の意匠に対するオマージュもバッチリある。大きくは、トライデント、時計の文字盤、砂時計の3点である。

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 筆者がこのような『女王陛下』オマージュのコンセプトに賛同するのは、ただただ自分の好きな過去作のオマージュがうれしいからのみではなく、クレイグ・ボンドのシリーズを締めくくる上で一定の理があると思うからである。まず大前提として、クレイグ・ボンドの物語は前作『スペクター』を以て完璧に終わっている。宿敵ブロフェルドですら雑魚としてあしらうほどの確固たるアイデンティティーを見せつけ、わざとらしく大仰に銃を捨てて伴侶の元へ去っていったボンド。思えば、近年の、特にMCUが精を出して世間に浸透させた"映画の連続ドラマ化"、要は押し進められたシリーズ化の傾向を取り入れ、007としては異例の続編形式で語られてきたクレイグ・ボンドは、『カジロワ』『慰め』という始まりの2本ボンドの誕生を描き、『スカイフォール』『スペクター』という終わりの2本ボンドの最後を描いたわけで、これはこれでコンセプトとしてはキレイにまとまっていたと思う。

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 では、そういう意味において完全に蛇足とも思える本作の意義とは何だったか。端的に言ってそれは"打ち上げ"であろう。観客もまたこれがジェームズ・ボンドというよりは"ダニエル・クレイグの卒業作"という意識を持って鑑賞することを見越した、メタなフェアウェル・パーティー。筆者の実弟と友人も、鑑賞後、口をそろえて『エンドゲーム』みたいな感じやった。」と言っていた。『エンドゲ』も、エンドロールで出演者の直筆サインを出すという禁じ手で以て、第4の壁を越えたメタな送別会をやっていたわけだが、本作も「僕と同じ青い目だ。」なんてボンドに言わせたりして(ちなみに、これがクレイグ・ボンドの最後の台詞らしい……と友人が言っていたのだが、原語だと単に「I know.」だったような気もする。)、意識的に第4の壁を破壊し、ダニエル・クレイグという俳優自身に観客の目を向けさせようとしている。それをやる上で、『女王陛下』に目をつけたところが、筆者には中々のアイデアに思えるのである。

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 なぜなら、先述のとおり、『女王陛下』というのはシリーズで唯一のメタで、型破りな例外的一本だから。そして、何よりその例外性、または異常性は、まさにクレイグ・ボンドの特性であったと思えるからである。これも先ほど順を追って振り返ったとおり、思い返せばクレイグ・ボンド作品は全てが従来の007作品に比して例外的であり、異常であった。その締めくくりとして『女王陛下』を下敷きにした型破り極まる作品を持ってくることで、クレイグ・ボンドのシリーズ全部があたかもこれまでで言うところの『女王陛下』的立ち位置、すなわち、007作品として非常に実験的なシーズンだった、ということでまとまったのではないか。もちろん、クレイグ・ボンドを"正統なボンド"と認めていた人たち、特にクレイグがマイ・ファースト・ボンドだった世代の観客なんかは、激怒する資格があると思う。"バイブル"を茶化され、汚されたんだから、あなたたちは"ライセンス・トゥ・激怒"の保有者だ。

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 一方、筆者にとってはブロスナン・ボンドが聖典であるため、今回のメタなお遊びも含め楽しめた。ひょっとしたら、まるで『女王陛下』やジョージ・レーゼンビーが今では「あのボンドも、アレはアレであり。」と評価されているように、クレイグ・ボンドも後生では「たしかに異常だけど、意欲的で実験的で、俺はあの時期のボンドも好きだよ。なんて言われているかもしれない。まぁ、それは歴史のみが知るところであるから今はまだ分からないが、とにかく、個人的には今回のメタな構成にも、それを『女王陛下』というフォーマットを借りて行うことにも、一定の合理性を見た、ということである。まぁ、もっと根本的かつ現実的な問題としては、宇多丸師匠の言葉を借りるなら全作が"ボンドの問い直し"であったクレイグ・ボンドシリーズを通して、"今『007』をやることの難しさ"が改めて浮き彫りになっちゃったという部分もあると思う。それはクレイグ以前のようなアクション映画としての"時代遅れとの戦い"だけではなく、もっと致命的な"正しさ"、要はいわゆる"コレクトネス"という観点である。

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 ボンドってのは言っちゃえば"無邪気な男の憧れ"のメタファーだったわけだから、今の時代を生き残っていくのは本当に本当に本当に困難だ。もちろん、これまでもそんな危機はあったのだとは思うが、ハリウッドにも人種、性別、その他のコレクトネスがすっかり浸透しつつある現在、いよいよ本当に危機一発という苦境であろう。それならいっそボンドを黒人にしたり、女性にしたりという生き残り戦略もあろうが、たしかブロッコリさんが女性ボンドは明確に否定したんじゃなかったかな。これはこれで筆者には英断に思えるが、しかし、今の潮流から行けば、近い将来、007はコレクトネスの渦に飲み込まれかねない。なればこそ、本作をメタで番外編的な一本として、そこで"仮にコレクトネスが実現した未来"を観客に提示してみせた、というようにも思える。黒人女性が007になっていて、ボンドは一人の女性を一途に思い続け、その結果、子を持ち、家庭を築く。

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 これはこれで、筆者には「なるほど。アイデアだなぁ。」と思えるのである。筆者の実弟だけでなく、高橋ヨシキ氏やてらさわホーク氏という偉大な映画人も、本作には憤っている(YouTubeチャンネル"BLACK HOLE"参照。)。そこには、お話や設定があまりにも杜撰という苦言もあるわけだが、やはり皆に共通する怒りポイントは「楽しみにしてたのに、なんじゃ"このボンドは"!というところであろう。しかし、この怒りが実は意図して喚起されたものなら、どうか。というか、意図したか否かに関わらず、もう007シリーズは本作で巻き起こった"こんなんボンドじゃないムーブメント"に乗っていくしか生き残る道は無かろう。高橋ヨシキ氏なんかは、クレイグ・ボンドを総括して「これまでのボンドじゃやっていけないと作り手が意識し過ぎている。」と仰っていたが、やっぱり、ジェームズ・ボンドという男は、今の時代を生きるには余りにも"無邪気"過ぎたのだと思う。

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 当然、筆者も男の端くれとしてそんな現状にこそ悲しさや窮屈さを覚えてしまうわけだが、でも、これまでどおり無邪気に任務を遂行し、無邪気に女を抱くボンドがまかり通らない時代が、ついに本当に来てしまったんだ。んー……"無邪気"とか、"まかり通らない"とか、本当はそういうのとも違うんだよな。その表現には我々おっさんが感じる郷愁や世知辛さのニュアンスが含まれているわけだが、本当はそんなフェイズなどとっくに終わっていて、要は、今を生きる若者はそもそもそんな男に憧れられないという純然たる事実があるのみだ。そして、それは"ボンドの死"と同義である。痛快なアクションや楽しいガジェット、あるいは美女とのめくるめくアバンチュール。そんな個々の要素も非常に重要ではあるのだが、しかし、それらはあくまで"手段"なのであって、やはりボンドの本質は"男が憧れる男"であるという、この点にある。ゆえに、高橋ヨシキ氏の主張、あるいは願いには当然賛同するものの、やはりボンドはこれまでどおりやってはいけないし、またやっていくべきではない(かもしれない)、と思うのである。

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 そこで、一度"ボンドらしからぬボンド"に極振りしてみせた。それが本作であろう。それは諦めでも逃げでもなく、次なる新生ボンドへバトンを渡すためのブリッジ。ボンドが抱える種々の問題に対して、あり得る案の一つ、しかも最も極端なそれを提示する"if ストーリー"であり、"マルチバース"。そんな風に筆者は考える。この試みが吉とでるか凶とでるかは先述のとおり歴史のみが知るところではあるが、"ボンドの外縁"を探り続けてきたクレイグ・ボンドが、最後に"その先"へとついに一線を踏み越えたところに筆者はおもしろさを感じる。それに、まぁ端的に言って、いささか窮屈過ぎたクレイグ・ボンドが次なるボンドへと後を濁さずバトンを渡す上で、こういう全てがどーでもよくなるような"おふざけ"を一発入れておくことは、最善であり必然であったような気もする。しかし、"おふざけ"でありながら、最後にはボンドを"ちやんと殺す"というところに、やはり「これじゃあ、ボンドじゃないよね。」という製作陣の自意識が、しっかりと見て取れはしないか。

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 まぁ、ゴチャゴチャと述べてきたが、総じて筆者は"クレイグ・ボンドとしての幕引き"というメタかつ抽象的なフェイズにおいて、本作を"おもしろい試みの一つ"として評価しているわけです。では、ここからはより具体的な"良かったポイント"をいくつか挙げようと思う。まずはアヴァン・タイトルから一つ。初鑑賞時は「アヴァンくそ長ぇ!」と思ったのだが、よく考えればそもそもの上映時間自体が従来と比較して長大なので、そこから逆算すれば当然と言えるかもしれない。で、筆者が感銘を受けたのは、マドレーヌに裏切られたとスネるボンドが、彼女とともにアストンマーチンで逃げるシーン。その中でも特に、広場に追い詰められ、周囲を追っ手に取り囲まれる場面である。四方八方からギャギャギャギャギャ!!!と銃撃を浴びるマーチン。いや……そういう撃ち方はしないでしょ……。同士討ちの危険が……。とか思うけど、雨あられの銃弾にもビクともしないマーチンが、まず"ザ・ボンドカー"の貫禄でカッコいい。

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 しかも、ここのマーチンはただガジェット的なカッコよさだけじゃなくて、ちゃんとボンドの心境や状況の比喩にもなっている。つまり、この場面のボンドは、マーチン同様、八方から襲い来る不安や疑心や見えざる敵意に迷い、「ふぬぬぬぬ……。」と耐えている状態。で、最後には「ちくしょう! ちくしょう! もう分かんねーよ!!!とばかりに砲門を開き、反撃という名のヤケクソに転じる。ここは、過去作だと左右にマシンガンが一丁ずつだったところ、ガトリングガンにグレードアップされていましたね。でも、それは決してカタルシスを導かない。むしろ、逆だ。ボロボロのマーチンの内側では、同じく(特に心が)ボロボロのボンドとマドレーヌ。ここに広場の鐘の音が、あたかもウェディング・ベルのように鳴り響くんです。なんたるアイロニー。やはりジェームズ・ボンドという男に結婚は無理なのか。彼には、祝福の鐘の音さえ、こんな形でしか鳴ってはくれないのか。

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 『女王陛下』の"その先"を期待した筆者は、やはり"スパイの円環"へと引きずり戻されるボンドを見て、大変な悲しさを覚える。しかし、それはまた同時に、本作が導くオチへの伏線でもあった。すなわち、本作ラストにおいてボンドは、このアヴァンとは対照的にミサイルの雨あられにその生身を晒し、反面、心は穏やかに死んでいく。そういう側(ガワ)と内面の対比もさることながら、これにてボンドは、ついに真に"円環"からの離脱を成し遂げたわけだ。『女王陛下』オマージュによって我々の脳裏に強く"円環"を再認識させたアヴァンのアイロニーは、ボンドの死という今だかつてない大オチのフリに、実はなっていたということですね。ほんで、その後、ボンドとマドレーヌは列車の駅で涙の別れとなるわけだが、ここも個人的にはグッと来た。構図としては、ボンドが駅に残り、マドレーヌは車内。普通のカップルの普通の描写なら、カメラは駅側の人物に寄り添い、走り始めた列車を「さよならー!」と追いかける彼(or 彼女)を中心に映し出すだろう。

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 しかし、本作ではそうはならない。どうなるかと言うと、ボンドは駅のホームに根を生やしたがごとくスックと仁王立ちし、逆にマドレーヌが車内をトコトコと逆走することで、可及的に相対距離を保とうとする、という構図。それを車内のマドレーヌ視点で見せるんだ。つまり、画面中央に静止するボンドの手前を次々に車窓が過ぎ去っていく、という画面。これがあたかもフィルムロールのように見えるんですね。まるでボンドという男が映画のキャラクターだとバラしてしまうかのようなギミック。初鑑賞時には「変わった構図やなー。深読みすればかなりメタいなー。」なんてボンヤリ思っていたのだが、終わってみれば深読みでも何でもない。全編を通しておもっくそメタメタにメタな作品だったのだから、アヴァンの当該シーンも、おそらくはそのような意図でデザインされているのであろう。

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 あと、中盤でボンドがウイルスに感染しちゃう展開。好きですね。これはボンドの手によってブロフェルドを殺害するための敵の策略だったわけだが、ここでボンドは遺伝子的に"未来永劫ブロフェルド絶対殺すマン"になっちゃう。しかも、ブロフェルドと言ってもエルンスト・スタヴロだけじゃない。彼の遺伝子を受け継ぐブロフェルド家全員に対して"常に勝ち確"という状態になる。これ、ボンドというキャラクターとブロフェルドというキャラクターの決着の付け方として、めちゃくちゃ極端でなんか笑っちゃう。もし『スカイウォーカーの夜明け』みたいにブロフェルドのクローンがワラワラ出てきたとしても、全く敵にならない……というか、そもそもストーリーが成立しないレベル。身も蓋もなく、非常にメタで、なおかつとても大胆で清々しいやり口だと思った。それでいて、ちゃんと最後にボンド自身に振りかかる悲劇、すなわち、サフィンの"不思議ウイルス"によって自身の愛する者全てに触れられなくなってしまう、という展開の伏線にもなっている。

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 あと、いつものボンド映画で言うところの"第2ボンド・ガール"であるパロマ嬢を演じたみんな大好きアナ・デ・アルマスは、案の定、最高に最高に、さいくうううぅぅぅ〜〜〜!!に可愛かった。一見すると『サイレンサー第4弾/破壊部隊』でシャロン・テートが演じたフレアさんのような"(前時代的)おバカお色気担当"にも見えるが、しかして、あのボンドと対峙しても最後まで毅然と振る舞い、しっかりと"パートナー"としての距離感を保っていたところもフレッシュで良かったですね。アルマスさんと言えば、いわば"セックス・シンボル"というか、いわば"ファム・ファタール"というか、とにかく全ての男が問答無用で虜になってしまう、やや浮世離れした"悪女"の役が多いような気がする。『ブレラン2049』のジョイや『ノック・ノック』のベルはその好例であろう。本作ではそんなイメージを逆手に取って"新たなるボンド・ガール像"を強調する狙いがあったのかなと想像するが、まさにその狙いどおり、素晴らしい効果を生んでいたと思う。

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 パロマ嬢が象徴するように、クレイグ・ボンドってのはあまり女性と行きずりしない007なわけだが、その代わり男性とのホモホモしいブロマンスが随所に見られる。先述のとおり、彼が唯一大爆笑したのは記念すべきデビュー作の"強敵(とも)"にタマキンをイジイジしてもらったときだったわけだし。あれは本当に楽しそうだったなぁ。本作では、そんなクレイグ・ボンドの最後を飾るべく、そのままズバリ、Q同性愛者属性が付与されていました。まぁ、この突然の設定追加はちょっとあからさますぎてどうかと思わなくもないが、最後の最後で見せる、ボンドの死に対するQのリアクションはすごく良かったですね。慟哭ではなく、「スーーー……。」と唇を噛む感じ。ボンドをサポートするだけでなく、『スカイフォール』では新世代の象徴としてボンドのアイデンティティーを際立てる役目も果たしたベン・ウィショー版Q。彼から"相棒(とも)"への最後のリアクションとして、「スーーー……。」は中々胸を打つものがあった。

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 ブロマンスで言えば、ジェフリー・ライト演じるフィリックス・ライターの最期は、まぁこれも感動的ではあったけれどちょっと笑っちゃった。だって、彼が海中にギュッ!と沈んでいく死に際の画ズラが、『カジロワ』でヴェスパが死ぬときのそれと全く同じだったから。それは……そういうことなんですかね……? クレイグ・ボンドにとってのフィリックスは、生涯で唯一本当に愛した女性ヴェスパ・リンドに匹敵する存在なのだ!ってことなんですかね……? あるいは、もしかしてクレイグ・ボンドの本当の"嫁"は、あんな経理屋の小娘ではなくフィリックスだ!ってことで、よろしいんですかね……? もちろん、筆者はよろしい!と思いますよ。こんな多様性の時代だ。いつか"ボンド・ガール"ではなく"ボンド・ボーイ"が、007の冒険に一花添える日が来てもおかしくない。そんなあり得るコレクトネスの未来を先取りして見せてくれた……のかな?

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 そんな感じで、個人的にはコンセプトから細部のディティールから、総じて結構満足したのだけれど、たしかに上手くいっていない部分が随所に散見されるのもまた事実だと思う。たとえば、"女007"ことノーミさん。ハッキリ言って、彼女のキャラクターは非常に残念でしたね。ただただ"黒人"で"女性"の007というガワだけに留まっていて、そのスパイとしての実質はシンプルなポンコツ。終盤で彼女が"007"の返上を申し出るところも、マジで意味が分からなかった。そりゃ、ポンコツ・スパイは007に相応しくないが、クレイグは別に007の肩書に固執していたわけでもないし、わざわざ彼女自身に"降参"させる意味はあったのだろうか。むしろ逆に、ボンドこそがポンコツに見えるくらいバッキバキに有能でカッコいい黒人女スパイとして描いて、あぁ……そんなことされたら俺はもう死ぬしかねぇっす……。って感じで、諦観のボンドがミサイルの雨あられを受ける方が、本作のコンセプトによほど合致してはいないだろうか……。

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 あと、サフィンもちょっと物足りないキャラクターだったかなぁ。まぁ、"愛する女"を軸としたボンドの鏡像という設定は、良しとしよう。母性愛での鏡像たるシルヴァ、父性愛での鏡像たるブロフェルドに続いて、これでボンドの"鏡像関係シリーズ"(?)はコンプリートされた。しかし本当にまぁ……クレイグ・ボンドって"自分"とばっかり戦わされる007だったな。もちろん、それは"ボンドらしからぬボンド"としてスタートしたダニエル・クレイグや、"007の外縁"を探り続けてきたシリーズのあり方からして、一応筋は通っているのだが。けど、サフィンはもうちょっとハジけてくれてもよかったと思う。象徴的なのは、やっぱりサフィン's アイランドのポイズン・ガーデンですよね。あれ、ショッボ……。そもそもまだ造園中やん。それを差し引いても、生えてる草が全然毒々しくないやん。"おもしろギミック"として、孤島の秘密要塞!とか、畳がパカッと開いて奈落に退避する仕掛け!とかは一応やってんだから、オチに直結するポイズン・ガーデンこそ、もっと禍々しく楽しいビジュアルで見せてほしかった。

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 それから、Mね。『スカイフォール』のラストで観客の度肝を抜く形でライズし、『スペクター』では自らの拳で事件解決に一役買うなど、新たなるキャラクター造形に成功していたレイフ・ファインズ版新生M。しかし、本作の彼は酷い。これもノーミさんと同じく、とにかくポンコツ。そもそも"ヘラクレス計画"でしたっけ? 今回の騒動の核心たるウイルスは、コイツ主導で作ってたんですよね? でも、全然悪びれてないし、それどころか自らの尻拭いに既に引退していたかつての部下を巻き込んで、結果死なせてしまったわけだ。特にクライマックスでサフィン's アイランドを巡り各国が牽制し合う局面。ここでこそ、彼は英国秘密諜報機関の首領(ドン)たるパワーやナレッジやコネクションを総動員して、ヒエラルキーの上流からボンドをアシストしてやるべきではなかったか。彼は結局、アワアワと指をくわえていただけじゃあないか。筆者は、雇われ人の端くれとして、このようなポンコツ・スーパーバイザーの元で働くボンドに同情の念を禁じえない。

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 他にも義眼の敵キャラがスペクターからサフィンにいつ寝返ったか不明という杜撰さとかも本作のあまりよろしくない点かと思うが、最後にもう一つだけ、ボンドとマドレーヌ&娘っちとの関係性について。前時代的で独善的な価値観の持ち主である筆者は鑑賞時気にならなかったのだが、後日"BLACKHOLE"の配信で「一方的に捨てた女がまだ一途に自分のことを思い続けていて、さらにこっそり健気に自分の子供を育てているってのは、"昭和のおっさんの憧れ"のようでキモチワルイ。」と言及されているのを観て、なるほど……たしかに……。と唸った。コレクトネスに配慮し、多様な人間関係や"幸せ"の在り方を見せるなら、むしろ往年のボンドのような奔放な行きずりの方が、よほど現代的で相応しいとすら言える。まぁしかし、ここは前提として"最もボンドらしくないボンド像に極振りする"とうコンセプトがあるのだろうし……(たぶんね。)。こんなボンドは嫌だ!と思わされた時点で、作り手の思惑どおりなのかもしれない。

点数:77/100点
 公開からずいぶんと経ってしまったわりにはあまり内容の無い感想をダラダラと書いてしまったが、要約すると「前作でキレイに終わったクレイグ・ボンドからまだ見ぬネクスト・ボンドへの"繋ぎの特別編"としては全然楽しめたし、007映画の現状からすればそういう"繋ぎの特別編"が必要だったと思うよ!」って感じになる。メタな視点からシリーズを解体することで(いったん)決着を付けようとする姿勢なんかは、どこか奇しくも昨年公開の『シン・エヴァ』のようでもありますね。『マトリックス』もそうだったし、アッチじゃあ年末公開だった『ノー・ウェイ・ホーム』もそうだったし、"解体"まではいかないにしても、2021年の映画シーンはメタな"同窓会映画"が多かったように思う。まぁ、そんなこんなで『エヴァ』風に本稿を締めるなら、「ボンドにありがとう。クレイグにさようなら。そして、全ての007に……また会おう! 次も期待してるよ!」ってとこでしょうか。

(鑑賞日[初]:2021.10.2)
(劇場:TOHOシネマズ梅田)


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Mr.Alan Smithee
Posted byMr.Alan Smithee

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